2979.プロの仕事/自分自身に対する繰り言(09/01 16:42)


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父の遺稿集を出すということで母が原稿をまとめ、父と母の高校時代からの知り合いの印刷屋さんに来てもらい、具体的な話をした。母といくら話していてもどういう本にするのか堂々巡りで全然決まらないのだが、今朝は話していてほとんどすぐに考え方が決まり、話があっという間に進展した。プロと言うのはすごいと思う。こちらのもやもやした考えをあっという間に形にしてくれる。はっきり言葉にできずに考えていたことをすっと提示してくれるので、それならこうしたらどうか、というアイディアがこちらからもすぐ出るのだ。不慣れな仕事は、こちらがプロになれるわけではないけど、プロと話をしながら進めるということはインパクトがある。別の話だが、会計のことも身内でいくら話しても堂々巡りだったことが実務をやっている人を交えて話したらあっという間にすべて腑に落ちたということがあった。定型の決まっている仕事に関しては、プロの仕事の切れ味はすごい、と改めて思った。逆に言えば、素人がいくら理屈で考えても分からないことが実務の仕事にはあるということだ。大きな組織でやっているときは分からないことはすべて専門の人に任せて終わり、で済んでいたが、家内経営みたいな仕事のやり方だと自分たちでできそうなことはなるべく自分たちで済ませる習慣になるのであまりそういう仕事に触れる機会が多くなくなるのだけど、久々に専門家の力というものを感じた。そういうものをいかに生かしていくかということは、生きる上でもその仕事を充実させる上でも大きな要素だと思った。

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<画像>古楽とは何か―言語としての音楽
ニコラウス アーノンクール
音楽之友社

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アーノンクール『古楽とは何か』に書かれていることについていろいろ考える。アーノンクールの主張のひとつは、19世紀ロマン主義以来、というか「フランス革命以来」という言い方をしているが、音楽は「感性の領域」のもの、という考え方が主流になったということで、逆に言えば18世紀以前は音楽(そのほかの芸術もそうだろう)は「知性の領域」のものであったということになる。たとえて言えば――以下は私の勝手な解釈だが――音楽は「感性の牢獄」とでもいうべきところに幽閉されてしまって、美しく装飾的であることのみを強要されることになった、ということになろう。知性と感性とをどちらが人間性の本体により近いものか、という日本的な考え方では感性の方が近いということになりそうだがヨーロッパ的な考え方では知性の方がより近いということになる、という感触があった。これは多分文明的な特色なのだと思うが、日本では知に対してより感性に対して、ヨーロッパでは感性に対してより知に対して、より敬意が払われているように思う。

以下は自分自身に対する繰り言。まあ詳細は省くが、私は知の方が勝るタイプの人間だと思うけど、90年代後半以後、「知」というものが信じられなくなってしまったところがあって、一方的に感性に憧れるようなところがあったのだなあと昨日考えていて思ったのだった。自分が90年代に何かを損なった感じがしていて、それは感性的な部分だと思っていたのだけど、というか派生的に感性的な部分が損なわれたというところもあると思うけれども、より知に対して、知への信頼に対して、自分自身の知に対する真っ当な評価というものに対して、の認識がかなり崩壊してしまっていたのだなと思う。知的な方法が顧みられない実務の現場と、とことんまで深く広くまた専門的な能力が限界まで要求される知の現場、そして日本的な知の体系、というか自分がそれまで培ってきた知の体系がたとえばアメリカ的な知の体系とは適合しないという現実、何というか三つの力のベクトルが破壊的に働いて何かが壊れたということだったのかなという感じがする。


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