2977.読みやす過ぎる塩野七生/誤解される正岡子規(04/03 11:50)


昨夜は、仕事は早めに上がれそうな状況だったのだが、事務仕事が追いつかず、結局10時近くまで仕事をした。どうも忙しい。まあ前倒しして仕事を片付けているせいもあるが、前倒ししないと間に合わないところがありそうで困る。

封筒にコピー機で印字をしていたら、かすれやら汚れやらたくさん出てきて、どうも一度に印字しようとそうなるようなので、5枚ずつ位に分けて少しずつコピーしたらかなり疲れた。コピー機の性能にもよるのだろうが、いろいろ難しい。

<画像>ルネサンスとは何であったのか (塩野七生ルネサンス著作集)
塩野 七生
新潮社

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塩野七生『ルネサンスとは何であったのか』。塩野七生の文章は読んでいて面白いのだけど、後に残らないのはなぜなんだろう、といつも思う。多分、するっと入りすぎて、抵抗感がない、というのが大きいのだろう。それは塩野が実に読み易い文章を書くということなのだけど、レトリックがかなり平易であるせいもあると思う。読みやすくしかも後に残る文章、というのは難しいなと思う。

<画像>連句のたのしみ (新潮選書)
高橋 順子
新潮社

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高橋順子『連句の楽しみ』。正岡子規が連句を否定した、という話が出てくるのだが、子規自身は連句に魅力を感じていたけれども、発句の芸術としての独立性を確立するためにあえて連句を否定した、ということがあるのだという。短歌・俳句の世界では子規の言説が必要以上に絶対化されているところがあって、そのために返って子規の本当のところは誤解されていることが多いのだなと思った。

2007年5月の読書記録を作ってみた。民話をよく読んでいたのは自分の核になるものを捜し求めてのことだが、その他には『江古田ちゃん』『水鏡綺譚』『髪結いの亭主』『ツンドラブルーアイス』『若草物語』『自宅のアート』など、あとに結構印象が残っているものに出会っている。偶然見つけたものも多く、このころは面白いものを探す力があったのだなと思う。系統性はないが。敢えて言えばアート系か。非純粋系アートとでも言うか。

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