2975.ネット上の「釣り」と作家の才能/いま自分がどこにいるのか(09/05 16:30)


< ページ移動: 1 2 3 4 >

レベッカ・ブラウン『若かった日々』読了。最後の方の数編は内面心理の動きみたいな感じの作品で、あまりよくわからなかった。こういうものは、あるとき急に思い当たることがあるかもしれないし、一生思い当たることもないものかもしれない。なんとなく心に引っ掛かりができると、いつかそれがそういえばあの本は、と思うことになるけど、そういう引っかかりもあまり残らない感じの作品だった。しかしそういう全く忘れ去るような作品でも、忘れ去った後でもう一度読み直してみるとすごく心に残ったりすることもあるので分からない。読み直してみてもよくわからないことも多いけど。

<画像>若かった日々 (新潮文庫)
レベッカ ブラウン
新潮社

このアイテムの詳細を見る

今日は午前中にブログを書いて、午後は別のものに取り組もうと思っていたのだけど、そうはいかなかった。いくつかネタはあったのだけど、どうもあまりいい材料じゃない。というか、それについて書くと心が荒みそうな感じのする材料だったのだ。あまり調子の上がらないときなど、ついそういう題材で書いてしまうことがある。逆に、自分が調子がいいと思っているとそういう題材に引っかかってしまうことがある。今日など、正直言ってなかなか書く素材が見つからなかったので、それについて書くかどうかはずいぶん迷ったのだけど、結局書くのはやめた。で、そのことで迷ったことを題材に結局は書いているわけだから題材などというものは何に注目するか、どういうスタンスでそれを見るかだけが問題で、いくらでも出てくるものなのだということはわかる。

友達も選んで付き合わないと危ない目に会う、特に異性の友達は、ということはあるが、文章の題材も似たようなところがある。書いても自分に得るところが残らないものもあれば書けば書くほど傷つくようなものもある。もちろん何か依頼されて書くときにはそういうものについて書かなければならなくなって切り口に苦労したりするわけだが。

といいつつ少しそのことについて書いてみよう。ネットを見ていると心が荒んでくる感じがすることがある。いいものだ、と思ってみているうちにだんだんイヤなものが混じってくる、その境目が微妙だからだろう。上澄みのきれいな部分だけ飲んでいるうちに下の方の不純物の多いいがらっぽい部分も飲んでしまうことになる、というような感じだろうか。出版物は売られているシャンパンのようにちゃんと澱を除去して美味しいところだけ飲ませてくれる(そうでない場合もあるけど)けれども、ネットの記事は美味しいところも見て損したと思うところも玉石混交だ。何か面白いことがないかと探しているときがいちばん危なくて、面白そうだと思って読んでいるうちに変なものを読まされていることが多いし、気がつかずにそういうものを読んでいるうちにこちらもなんだか変になっていたりする。正気に戻るのに少し時間がかかったりする。

発言小町などはつい関心が引かれてしまって読んでみるととんでもない発言があっておいおいそれはないだろうと思っているうちに憤激した人たちがどんどん書き込んでさらに変な反応が重なってすごいことになる、ということをときどき見聞きする。教えてgooなどにも最近そういうのが流れているようだが、いわれてみてそうだったのかと思ったのが『釣り師』の存在だ。中には『カリスマ釣り師』なるものがいるらしい。そういわれてはっとした。

ネット上でよくある、非常識な発言をしたり、「こういう非常識な行動をしたけど私は間違ってないと信じている」的な発言というのは、どのくらいだかは知らないけれどもかなりの部分「釣り師」、つまりそういう話を創作して掲載し、常識人を憤激させる人によって書かれているらしい、ということだ。実際にそういう人の話を聞いたことがあるわけではないのでよくわからないけれども、確かにそういう「創作」として書かれているとすると、すごくよく出来ている。言われて見ればすごく作意が感じられて不自然だったりするのだが、一見してまじめに書かれていると思ってしまう、というものは結構ある。


< ページ移動: 1 2 3 4 >
2975/5071

コメント投稿
次の記事へ >
< 前の記事へ
一覧へ戻る

Powered by
MT4i v2.21