作中、初めての発表会で朱里は元カレの進吾がきていることに気づいて動揺し、めちゃくちゃに踊ってしまうのだが、進吾は逆にそういう朱里の踊りに爆笑し、自分の中の整理がついてブラック企業を退職する決意をすることができた。そして小西と飲んだ際に朱里のことをよろしくお願いします、というとともに、「朱里のダンスはへっぽこだけど人を変える力がある」と伝えてくれるように頼む。つまり進吾は朱里のベリーダンスを見て「自立の力」を得たわけである。
そして小西も、そんな進吾と話して、自分が今まで一度ダメになりかけた女性と付き合えなかった自分と向き合い、「ごめん」ということで朱里との関係を取り戻す。自分のプライドへのこだわりに寄りかかることなく立つことを掴んだわけである。
ドラマの方は見ていないので確信を持ったことは言えないが、恐らくはプロデューサーの言い方からして、「自分の心の中の決めつけや周りの視線に縛られていた自分を解放して自由に生きるようになれた」人たちの物語、つまり「解放の物語」としてこの作品に臨んだのだろうなということはまあ想像がつく。ここでの解放とは、つまり世間で言われている「女性解放」とか「男性からの抑圧からの解放」、「古い価値観からの解放」みたいなレベルのことである。
問題は、「解放」は必ずしも「自立」ではないことである。もちろん、「自立」するためにはさまざまな固定観念や、世間の目という恐怖からの「解放」があったほうがいい。しかしそれがなくても、田中さんはベリーダンスと出会うことによって「背筋を伸ばして生きる=自立する」ことが可能になり、そんな田中さんに朱里は憧れたわけで、ベリーダンスをしているときに「自立」することはできてもそれ以外の時には「背中が曲がっている」ことも多いわけで、「きっかけとしてのベリーダンス」が自立を促したことは確かだけれども、それだけではダメで、それが登場人物たちの関わりの中で真の自立を掴んでいく、というのがこの物語の言いたいことなのだと思う。
この物語が単なる「解放」の物語でないことは、三好という人物によって表現されている。このストーリーの中で最も「解放」された人物は三好だろう。そしてそこにおそらく田中さんは惹かれていて、芦原さんが生前に描いたストーリーのほぼラストで田中さんは三好と付き合うことになる。
この先は想像に過ぎないが、恐らくは田中さんと三好の付き合いはあまりうまくいかないだろう。三好は「あまりに解放され過ぎている」人間だからである。誰にでも優しく、誰にでも親切で、困った人には手を伸ばし、そのことで自分が不利益を受けてもその人のことを見捨てない。それはお坊さんとかなら良いけれども、そういう人と付き合っていると女性は不安になるのではないかという気がする。
彼はつまり、「解放」の悪いところをある意味体現する人物なのであって、少なくとも理想の人物としては描かれていない。今の田中さんには恐らくはそう見えるのだけど。そういう前提で考えれば、「この作品は解放の物語ではない」ということになるわけである。
それではなぜ、プロデューサーはこの物語を「自己解放の物語である」と規定したのだろうか。それはもちろん、そのほうが受けるからである。視聴者である女性の側も、自立なんていう面倒くさいことよりも、解放という楽なことの方を求めている人が多いだろうだから、解放のその先にある自立の物語などよりも、「自分が解放される」ことを疑似体験できることの方が関心事であり、そのニーズをプロデューサーは理解しているということになる。
自立の物語を描きたい原作者の芦原さんとの齟齬は、そこが最大の点ではないかと思う。芦原さんの消されたブログには、「進吾も小西も、あんなにバカではない」という言葉があったように記憶している。自分が踏み切れなかった自立を朱里のダンスや進吾の行動で掴み取るには、それなりの知性が必要だから、そこのところがうまく書かれていなかったのかなという気はする。見ていないからわからないのだけど。
この辺りの問題は、日本のフェミニズムとも通底するのではないかと思う。本来、フェミニズムというのは「女性の自立」を最大のテーマとしていたように思うが、日本ではなぜか「女性の保護」やその延長上での「女性の解放」、あるいは独善的な「女性の権利」などが追求されるようになっていて、「男性が支える社会の中で女性が解放されて自由に生きたい」というトンデモな願望がフェミニズムであると誤解されている感じが強い。それは、つまりはそういう女性のニーズに迎合したということなのだと思う。
「日本では女性の自立の物語はカネにならない。」つまり、小学館の編集長も、日本テレビのプロデューサーもそのように判断し、それを芦原さんに押し付けようとしたが芦原さんは最後まで抵抗したものの、自分の思うように事態を変えることができなかった、ということなのではないかと思う。