2.ナショナリズムの向こう側にある普遍主義/日本にとって普遍とは何か(12/09 10:19)


12月9日(金)晴れ

今朝の最低気温がマイナス2.5度まで下がり、いよいよ冬になってきたという感じだが、例年に比べれば比較的暖かいんじゃないかなという気はしている。昨日は母を連れて松本まで病院に行ってきたので結構疲れたが、仕事も忙しく、夜は割とよく眠れて、今朝起きたら5時半だった。最近は4時ごろ起きてしまっていろいろやるパターンになっているので、逆にこのくらいの時間に起きてしまうとやることが滞ってしまったりすることもあり、まあなかなか難しいなと思う。

このくらい寒くなると車は車庫の外に置いておくとフロントガラスが凍結してしまうので、朝起きてから出かけるまでに時間がかかる。夜帰ってくる時も凍結が解けるまで時間がかかる、と行動の前提となる時間と手間が倍増するので、寒い地域や雪の降る地域というのはそれだけでハンデがあるのだよなと改めて思う。

昨日は「おどろきのウクライナ」の第3章を読んでいたが、ここからは議論はロシアのウクライナ侵攻後に行われ、内容もロシアとウクライナについての話が中心になっている。

昨日書いた内容もそうなのだが、ネーションステート(国民国家)やナショナリズム(国民主義)というものがこの辺りの議論の中心になっていたが、ロシアやウクライナという国家についての議論の中で、ナショナリズムとは何か、というような話が出てきた。

「ナショナリズムはなぜ正しいか」という問題については、「ナショナリズムの向こう側に何があるか」という問題が裏に隠れていて、それは「普遍主義」である、という指摘があり、これはとても同意した。

つまり、イギリスのナショナリズムにも、ドイツのナショナリズムもフランスのナショナリズムもその向こう側には「ヨーロッパという普遍」があるわけであり、彼らのナショナリズムは二重底になっている、という指摘はその通りだなと思った。ナショナリズムはヨーロッパ内部では分裂的に働くが、お互いヨーロッパの国同士という点では結合的に働き得る。そういう意味では各国のナショナリズムの向こう側には同じヨーロッパ人という「底」がもう一つある、というわけである。

ナショナリズムという個別性の主張はなぜ正当化されるかと言えば、その向こうにある種の普遍があるからこそ一国の独立を良きものとして捉えることができるわけで、その普遍がどの程度確かなものであるかが重要になるわけだけど、キリスト教と民主主義的価値という二つの基盤がヨーロッパにおいては確かな基盤として働いているわけで、彼らのナショナリズムが安定したものになりやすいのはそういうところだろうと思う。

ロシアの場合はヨーロッパなのかどうか曖昧なところがあり、結局マルクス・レーニン主義というキリスト教に代わり得ることができそうな普遍に頼ってしまった。それは数十年の効力はあったが、結局は失敗したということになるわけだ。

日本のことを考えてみると、日本のナショナリズムの向こう側には東アジア世界があるかといえば、現状そんなものはないと言わざるを得ない。今、或いは多くの歴史上の時代においても、そんなものを出したら中国に取り込まれてしまう恐れが強いわけだ。

だから日本が日本のナショナリズムを正当化し、世界に公言するためには、その向こうのものとして「八紘一宇」という中身があまり濃くない理想や、大東亜共栄圏という実態のはっきりしない構想をかかげるしかなかったのだよなあと思う。

日本人の中国観には帝国に飲み込まれたくない辺境の心境があるので、「我々は中国ではない」という主張は常に繰り返されてきているわけである。

そういう意味では日本という国家・民族は孤独だなと思う。ナショナリズムの向こう側には「世界」しかないのだから。いろいろ模索されてきた中には、例えば岡倉天心の理念的なアジアもある。イスラムやインドまで含めて「アジアは一つ」といってみるとかも、ナショナリズムを支える基盤として考えられてきたことはあった。

「自由で民主的で資本主義経済によって繁栄する平和国家」というのが戦後の日本においてはアイデンティティであり、それこそがナショナリズムの根底になり得たわけだけど、もともとそれは西欧の借り物の思想といえばそうなわけだし、経済的な苦境とともにその辺りも揺らいできている。

「和の思想」とか「共存共栄」とか日本的な思想みたいなものはあるにしても、普遍的な土俵をどう作っていくかということは、日本においてナショナリズムにとっても保守思想にとっても重要なことだと改めて思った。


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