11月23日(木・勤労感謝の日)晴れ
昨日は午前中松本に整体に行き、午後は母を連れて歯医者に行って、母を送り届けた後TSUTAYAに行って「GIANT KILLING」「ツイステッド・シスターズ」「ブルーピリオド」「ガクサン」「リエゾン」の5冊を買ってから職場に出た。忙しいのと少し疲れたのであまり本は読めなかったが、「神話学入門」は少し読めたかなと思う。
朝は5時前に目が覚めたのだが、布団の中でいろいろ考えていた。今朝はそのことを考えていたのだが、そのことをブログにも書こうと思っていたのだけど、どうもうまく形になりそうもなかったので書き出せないでいた。
というのは、思ったことを昔は割とストレートに書いていた、つまり「個人的な違和感」と「社会的な発言」を割とストレートに、シンプルに結び付けていたのだけど、最近はそこのところで迷う部分があるのだなと思う。
違和感というのは、これはまあ基本的な違和感みたいなものだけど、自分がこの場所にいるということの違和感、つまり一般社会と自分とのどうもうまく乗れない違和感みたいなものなのだけど、自分が今いろいろ主張している保守的な思想というものは、基本的に家族を重視したり地域社会を重視したりする一般社会における常識的なものを重視する部分が強いから、そこに対する違和感というのはある意味根本的に矛盾しているところがあるなあと思う、ということなわけである。
ただ、その違和感のポイントみたいなものを考えてみると、結局知的関心の有無ないしはその重要度、みたいなことになるかもしれない。一般社会において、あまり知的関心が高くなく、そちらに合わせていると自分が萎んでいく感じがする、みたいなことである。もともと自分は自分で勝手に自分の世界でどんどんやってしまうタイプだったから、「人に関心を持て」「社会に関心を持て」「人を理解しろ」「人と一緒に行動しろ」みたいなことを言われながら、そういう圧力を受けながら育っているので、今でもそういうスーパーエゴが自分を規制している面があるし、逆にいえばそういう教訓をちゃんと聞いていないと危ない、という場面も多くあったからそういう形での用心が働いている、場合によっては働きすぎている、ということがあるのだろうと思う。
まだ若い頃は周りのいろいろな人がそういう場面で不用意な行動をしてしまっても防波堤になってもらえる、みたいなことはなくはなかったが、今はそういう存在はないので自分のスーパーエゴが頑張って自分をそういう方向に引っ張っているところがあり、そういうものに対する違和感みたいなものがあるということなのかもしれない。
私の周りなどは、まだそういう知的な部分を否定する抑圧的なものがあるわけではないのだが、自分の中のそういうものが「世間にはそういうことは理解されないからほどほどに」みたいな規制をかけているという感じだろうか。
考えていたのは、一般社会というものがどういうものかということだけど、要は一般ピープル、つまりいわゆる「中流」みたいな感じの人たちん社会、というふうに考えていたわけだ。一般社会の上に上層社会があり、一般社会の下に下層社会がある、みたいな構造と言ってもいい。一般社会というのは基本的に社会の現状に満足している人たち、という意味で、下層社会というのは社会の現状に不満があり、反感を持っている人たち、と言えるかもしれない。こういう人たちは反抗的なものをかっこいいと思い、場合によっては反社会的なものに利用されがち、という感じのイメージである。
上層社会というのは社会の指導者層や成功者たちとそのファミリーという感じだが、本来知的関心というものはそういう「社会を引っ張っていく」ために必要な部分が大きいから、そうした社会でより重視される関心事ということになる。
日本で知的関心が低いというのは、特に上層社会でそれらに対する関心が低い、ということを意味するのだろうと思う。
それにはいろいろな理由があるが、一つには「教養」というものが日本では壊れてきているということ。ただ、これは日本だけではなくは世界的な傾向だろうと思うのだが、日本においては特に著しいような気がする。これは一つには日本の上層階級というものが十分に発達しなかったということかなと思う。それは近代以来、度重なる社会変革などによって安定した階級社会にならなかったということだろう。もちろん社会的流動性が高いことはいいことだし特に中下流にとっては重要なことなのだが、「国」や「民族」という単位で考えた時に他国に互していくためには指導階層がしっかりしている必要はある。
日本の場合は、明治維新で大きな変化があったが、一応近代上層社会の編成にはそれなりに成功したようには思う。しかしそれも敗戦により一度は解体し、高度経済成長で再建されていったが、失われた30年で上層階級の劣化が進み、特に「責任ある上層階級」が崩れてきている感じがある。