17.大衆が支える日本文化の独自性を守っていくという意味での「保守」/識者と人格/家制度の中で生かされてきた人たち/特急が遅れたり時間通りになったり(01/24 09:57)


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昔は「保守オヤジ」といえば、西部邁とか大島渚とか、テレビで怒るというより叱りつけるようなキャラクターがあったと思うのだが、私がそういう番組を見なくなったというせいもあるが田原総一朗さんとかがやっててもちょっと荷が重いというかキャラ違いだと思うし、どうも「この人格でこの実績のある人だから信用できる」というような説得力がある人がいなくなってきた。この辺りはテレビの凋落もまたもたらしていると思う。テレビというのはテレビであるだけでネットの報道機関に比べれば権威があるわけだけど、その権威が人格的なものに裏付けられていないので「マスゴミ」呼ばわりされるのだと思う。新聞は活字メディアである分だけマシな面はあるとは思うが。

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ついでにもう一つ書いておくと、現代では家制度はどんどん解体されていて、家父長制というのもほとんど過去のものになりつつあるが、そういうものによって守られていた人たち、というのも確実にいたことはもっと発言されても良いと思った。

昔はよく分からない居候みたいな人がいたり、仕事ができずにサボってばかりいる下男、みたいな人もいたりしたわけだけど、今ではそういう人たちは結局行政や福祉に繋がるしかなくて、高齢単身男性が多く住む住宅で火事で死んだりしているんだろうなあと思ってしまう。

また、割合財産はあるけど子供がいないという高齢者が、家に籠ったまま財産の整理もできないまま朽ち果てていくような話もよく聞く。昔ならばいろいろ周りが世話をしたり遠縁の人が援助したりしてそれなりに「家」を守るということがあったと思うのだけど、家制度の解体によって本当に更地になってしまっている感がある。

実際のところ、個人が個人としての権利と自由を行使して生きられる人は全人口のどれくらいの割合でいるのかと思うが、一人だと自分で生活するのがやっとだが、「家」があるからその中で役割を発揮して生き生き生きられるというような高齢者もまた多いはずだと思う。

「家」の抑圧的なイメージと作用だけではなく、それに属する人の保護という側面をもっと見直していかないといけないと思うし、また多様化というならば、そういう生き方ができるような相続制度や補助制度も単身者や核家族だけでなく作っていかないといけないと思う。今の制度が核家族中心にできすぎているという批判はその通りなのだが、LGBTだとかそういう問題だけでなく、家族と暮らせることによる高齢者の生きやすさ、それは家庭に職業につかないでも暮らせる人がいられるだけの収入が確保できるだけの支払いがあるということと強い繋がりがあると思うが、そういうものも考えていくべきではないかと思う。


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