14.「ブルーピリオド」:「他人の人生を搾取する作品」と「良い絵を描くこと」/生活の緩急/ハマスとイスラエルの「停戦」と「一時的な日常」(11/26 07:24)


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15巻は真田まち子が表紙で、私はこのキャラクターがとても好きなので嬉しいのだが、この才能の塊の彼女があっけなく散って、生前からその友人であった八虎の藝大における同級生たち、八雲・はっちゃん・桃ちゃんの三人に誘われ、同じく同級生の世田介も含めて桃ちゃんの実家の広島のお寺で制作合宿をしたことから、八虎が真田の存在を知り、彼らの関係性に強くインスパイアされて彼ら三人の後ろ姿と、真田がいるべき空白を作品化した作品を作って、村井と共にコンクールに応募し、村井は大賞を取り、八虎は入選を果たす。

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この作品は制作の時点から村井に「八虎はこのプランの危うさがわかってるのかな」と思われていたのだが、入選して美術館に展示され、表彰を受けたりしてる中で初めて八虎は自分の作品が「八雲さんたちの人生を搾取して入選した」と思い当たり、それを村井(八雲)にいうと、「まあそーね」と言われてぐさっとくるのだが、「評価あってこその反省は普通に成長だろ。「作品を発表することの責任」なんか一人で描いてて気づけなくね?この絵が最適解かはわからねーけどそん時持てた全部で向き合った結果なんだろ?それは見てりゃわかるよ」と言われ、「なんか優しくてきもいっすね」「おーい」というやりとりになる。

「ブルーピリオド」の作者の山口つばささんは藝大現役合格の経歴を持ったマンガ家なのだけど、ということはそういう観念的な議論や検討は在学当時やその前後に山ほどしたと思うのだけど、そういうことは作品には少なくとも言葉としてはほとんど出して来ず、その辺りでとてもこの作品が読みやすくなっていたところはあったと思う。だから「他人の人生を搾取した作品」というパワーワードが出てきたこと自体に結構へえっと思ったのだけど、そこから先の展開もパティシエを目指して修行している恋ヶ窪(恋ちゃん)との会話の中で「作家の道=表現することを選び続ける選択をしようとしてるんだな」と言われたりして、作家という仕事=表現の道の「業」のようなものを選び取ることの意味について描いていて、ある意味での生硬さというものも感じられなくはないがインターミッション前の総決算としてはとても重い締めになっていて、その辺りの「人生の本気」のようなものを強く感じた。

「他人の人生を搾取する作品」といえば、いわゆる「モデル小説」が思い浮かぶわけだが、最近では柳美里さんの「石に泳ぐ魚」の裁判の例が思い浮かぶ。八虎の作品は八雲にも好意的に受け止められ、争いにはならなかったものの八虎自身は「もっと真摯に描けたんじゃないか」と思い悩み、受賞自体を辞退することも考えたりするのだが、美術館で作品を見た女性に激賞された手紙、「あの作品に救われた」という手紙をもらって「自分の作品がこんな歩に誰かに届くとは全く想像してなくて、ピンと来ないくらい嬉しいけど、間に受けちゃダメな気がする、もっと自分の描きたいものに真摯でいられるように、もっと表現の幅を増やして今よりずっと良い絵が描きたい」と言う。

それが「作家になると言うこと」だというメッセージがそこにあるわけなのだけど、単行本のアオリコピーになっている「この筆はいつか誰かを傷つける。それでも描いて描いて前へ進む」という言葉に繋がるのだけど、これはつまり「空気が読める男」である八虎にとっては結構正面から来る重いことであって、それがあって初めて生きるコピーではあるなと思った。

実際のところ、正直言って、「人の人生を搾取してそれっきり」という作品は、決して少なくはないと思う。それは作品だけではなくて、「困ってる人を救う」系の運動とかにもそれは当てはまる。「行き場のない少女たちを支援する」運動が少女たち自身から支持されなくなったり彼女ら支援対象のことよりも自分たちの運動の維持の方が大事になったりするような話も聞くし、特にひどいのは福島の被災者たちが生活再建に頑張っているのにそんなのはおかしい、放射能の被害をもっと訴えるべきだ、というような方向に持っていって彼らの生活再建の努力を妨害したり、日本で普通に暮らしていた性的少数者の人たちに対してLGBT運動の人たちが自分たちの主張を強硬に推し進めて帰って性的少数者の人たちが暮らしにくくなったりしているのも、「当事者の人生を運動が搾取している」という面があるのではないかと思う。


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