1130.現代の哲学の議論とか哲学の進んでいく方向性について分からないなりに考えたり(11/09 12:13)


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「世界哲学史8」第一章分析哲学の興亡(一ノ瀬正樹)を読了した。

筑摩書房
2020-08-07

 

ただ、この分野は基本的に不案内なので一度通読しただけでは分からない、というか捕らえ切れていないところが多いし、この文章自体が「分析哲学」というものがどこからきてどこへ行こうとしているのか、というようなことについて書いている概説的な文章であり、それをまとめることにどれくらい意義があるのかというのも少し難しい。本当ならしっかりノートを取りながら読むべき、そしてそれについて深めていく時間が必要な内容だと思う。

私は読みながら、ここは、と思ったところはツイートして、あとで見直そうと思って読み続けたのだが、今ツイートを見直しても部分的に印象に残ったところという以上のことはなくて、この文章について私が今何を語るべきかというのはわりと難しいなと思う。

私自身が今回発見した、というか確認できたのは、哲学において「事実」と「規範/価値」の二元論というのがとても大きな存在だということで、これは後で指摘されて気づいたのだが、ドイツ哲学における実在Seinと当為Sollenの二元論だということだった。つまりこれは人間活動において根本的な重要性を持つことであり、「事実・現状を把握し認識すること」と「それはどうあるべきでありどう行動するべきであるかを認識すること」の二つになるわけだけど、私などは基本的に「事実認識から始めて対処方針を考えればいい」と考える方ではあるが、「これはこうあるべきなのでこうしなければならない」という考え方が強い人もいる。

私の考えでは、事実認識が間違っていたら方針も間違えるのでSeinがSollenに優先すると思うが、そうでない人はわりと多い。ただ、実際問題として十分な情報がなくて十分に状況を認識できないまま判断を下さなければならないということもあるが、それは少ない情報でも感情や不安に惑わされずになるべく理性的に下した判断に賭けていくしかない、ということになるだろうと思う。

「モテたい」が「モテなければならない」になったときに我が身を振り返って対策を検討するなら良いが、「モテるべきであるのにモテてないのは私より社会が悪い」と飛躍する場合もあるのが人間というものだが、これは当為と実在の関連の付け方に問題があるというべきだろう。

まあこれはこの問題だけでいくらでも書くことが出てくるようなことだけれども、現代哲学はさらにこの先に進んでいる。

面白いと思ったものだけを三つほどあげるが、オースティンの発語行為論。発語という行為は三つの場面位分けられ、「私は明日10時に原稿を提出することを約束します」という発言をすることは、言葉を発するという意味では「発語行為」であり、「発語によって約束という行為を遂行する」という意味では「発語内行為」であり、「発語によって相手を安心させたりその人の人柄を相手に看取させたりする」という意味では「発語媒介行為」であると。この辺り、物語論やキャラクター論、さらには演劇論に関わってきて面白い。

物語や演劇、マンガの中でも「約束をする」というのは重要なキーになる行為であることが多く、最近の言い方では「フラグを立てる」ということにつながる。つまり、「発語内行為」こそが物語を進める原動力になる、ということが言える。また一方で、例えば安易に約束してしまったらそのキャラクターの軽薄さを表現することになり、苦しげに表現すればそのキャラクターの苦境を表現したりすることになる。「発語媒介行為」こそがキャラクター表現において重要であると言える。また、単純に「この場面に吹き出しを描くかどうか」を考えるのが「発語行為」ということになるだろう。これは割と物理的な話。

だからマンガの作者にも物語志向とキャラクター志向というものがあり、「少年マンガはキャラクターだ!」という主張はつまり発語媒介行為による表現をいかに練り上げるか、というのが一つの重要な要素になるということだろう。結構面白い。


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