1125.装飾芸術とモダニズム(11/23 15:29)


< ページ移動: 1 2 >
堀本洋一「ヨーロッパのアール・ヌーボー建築を巡る」(角川SSC新書、2009)を読了。買ってからしばらく本棚に挿したままになっていた本なのだが、ふと読んでみる気になり読み始めたのだが、しばらく読めていなかった理由が読んでいるうちにわかってきた。

堀本 洋一
角川SSコミュニケーションズ
2009-03T



この本は写真家でもある著者のヨーロッパの世紀末建築を巡る一種のガイドブック的なものなのだが、私自身が世紀末建築とかアールヌーボー建築について、建築史上の位置付けがちゃんとできてなく、また何がアールヌーボーで何がそうでないのか、その辺りのところもあまり整理できてないからなんだなと思った。

だから本当は建築史の本をちゃんと読めば良いのだが、とりあえずそこまでやる余裕もないので、ネットで色々調べながらこの本を読み、自分なりにわかったことを少し書いておこうと思う。

簡単にいえば、アール・ヌーボーやアール・デコなどの流れは異端だということだ。では何が正統かというと、モダニズム建築だということになる。近代建築の三巨匠と呼ばれるのがミース・ファン・デル・ローエとル・コルビジェとフランク・ロイド・ライトで、それにもう一人加えるならヴァルター・グロピウスということになるのだが、彼らは基本的に装飾を排した実用性が建築の本旨であるという方向性を持っていたため、装飾性の高いアール・ヌーボーは時代遅れの産物とみなされたわけだ。この辺のところはコルビジェの「建築とは住む機械だ」という言葉とかローエの「ユニバーサル・スペース(何にでも使える空間)」という概念とかに現れている。

ただ、元々の始まりはアール・ヌーボーもモダニズム建築も1880年代イギリスのアーツ・アンド・クラフツ運動に遡るといわれている。アール・ヌーボーの新しさは、伝統的な意匠ではなく自然に範を取った新しい題材、新しい曲線を建築や家具などに生かしていくところにあったわけだが、それらはウィリアム・モリスの影響を受けていることはある意味わかりやすい。また生活と芸術の統合というモリスの思想は柳宗悦らに影響を与え、日本での「民藝運動」や「用の美」という審美的基準にもつながっていくわけだ。

モダニズムとアール・ヌーボーの分裂が始まるのは1910年代の規格化論争で、作家性を重視するアンリ・ヴァン・デ・ヴェルデと製品の規格化を推進するヘルマン・ムテジウスの間で行われた。ヴァン・デ・ヴェルデが第一次世界大戦により手掛けていたワイマールの工芸学校をグロピウスに託してドイツを去ると、工芸学校は1919年に「バウハウス」となり、モダンデザインを主導する世界初の美術学校になる。

バウハウスはドイツにおけるアール・ヌーボーであるユーゲントシュティールを「キッチュ(=俗悪なもの」「いんちきなもの」「安っぽいもの」「お涙頂戴式の通俗的なもの」などを意味するドイツ語)」であると批判・嘲笑することになり、モダンデザインの一般化の中で装飾志向の建築やデザインは見向きもされないものになった。

それが再評価されるのは68年革命以降、つまり「近代主義」そのものが批判対象になってからで、アール・ヌーボーやアール・デコが見直されたのも「近代主義批判」のおかげかと思えば、ポストモダンも一定の功績があったと言えるなと思う。

しかしその近代主義批判が及ばなかったのがソビエト・ロシアであり、冷戦崩壊までソ連のデザインは基本的にモダン志向のものであり、その「古臭いモダニズム」が現代ではある種の郷愁を呼ぶ感さえある。

まあそんなふうにモダニズムと装飾志向芸術を簡単に整理してみた。


< ページ移動: 1 2 >
1125/5072

コメント投稿
次の記事へ >
< 前の記事へ
一覧へ戻る

Powered by
MT4i v2.21