43.『ハウルの動く城』と人生の「謎解き」「秘密の解き明かし」/魔法と操作性と構築的価値観/欲望と創造(01/05 12:34)


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【『ハウルの動く城』と人生の「謎解き」「秘密の解き明かし」】

<画像>ハウルの動く城 特別収録版 [DVD]
宮崎駿監督作品
ブエナ・ビスタ・ホーム・エンターテイメント

昨日は初仕事。久しぶりに仕事場に7時間くらい詰めていると、身体も気持ちもシャキッとして来る。午前中銀行でちょっとひと悶着したのでいまいちだったのだが、やはり仕事をすると平常心が戻って来る。ものを書くときというのはいわゆる平常心というのとは違う次元に行っているので、今のところ一番習慣が自分を我に返らせるのは仕事なのだなと思う。週五日長時間仕事をしているとだんだん気持ちもアレになって来るが、しばらく休んでから仕事に戻ると少しなまっていた自分のペースというものが戻ってくる感じが嬉しいなと思う。これは感覚的な好みの問題なのだろう。何かをしている感覚というのを感じていること自体がいいなあというときがときどきある。それは少し古い感覚が蘇ってもう一度その感覚を生きることができる、というそのこと自体を喜ぶということ。久しぶりの街を歩くときの感覚、とでもいうか。

帰宅してテレビをつけると、まだ報道ステーションはやっていなくて、チャンネルを回したら日テレ系の金曜ロードショーで『ハウルの動く城』をやっていた。ソフィーと荒地の魔女がサリマンに呼ばれて王宮の階段を上るシーンから。ご飯を食べながら最後まで見た。

久しぶりに見て、最初に見たときと同じように、何か分かりにくい話だな、と思った。それはなぜなんだろうと思ったのだけど、それは私が、その背景に描かれている戦争というものにどうも気を取られてしまって、前景が見えてないところがあるんだなあと思った。

よく考えて見ればあの場面から後のストーリーはサリマンとハウルたちの攻防と考えれば単純な話なのだ。「魔法使い」と「その弟子」たちの術比べ。そういう意味でいえばサリマンがラピュタでのムスカの役まわりになるのだけど、ムスカのように明確な敵ではなく、サリマンとソフィーの対立点は「見解の相違」「意見の相違」のレベルであって、だからこそソフィーはハウルを魔王にもせず、サリマンに従わせもしない、第三の道を探ることになるわけで、ドラマはそこにあるということになる。ソフィーの最初の敵は荒地の魔女だが彼女は王宮で無力化されてその後はトリックスター的に場をひっ掻きまわすだけになるし、そのあとのサリマンとの対決も相手が魔法使いとはいえ人間だから、なんか『もののけ姫』や『千と千尋』のようなスケール感があまりない。あまりに枠がきっちりできすぎてしまっているというか。

緊迫感のありかはハウルが魔王になってしまうのかとサリマンの攻撃をしのぎ切れるか、それにもうひとつハウルとカルシファーの秘密、その関係の秘密が明かされて行くところにある。私はどういうわけか「謎解き」とか「ミステリー」という言葉が(たぶん蛇蠍のように)嫌いなので、そういう言葉で表現したくはないのだけど、まあ意味としてはそういうことだ。

謎解き、と書いてみてまあとにかく私はこの言葉が嫌いなのでそんなのつまんねえよ、と条件反射的に言いそうになるのだけど、それをぐっとこらえて考えてみると、ストーリー展開の上で秘密の解き明かしというものはすごく重要な要素であるということはすぐに理解できる。確かにそこにあるもの、明確に提示されているものがそこにあるのだけど、それがいったい何を意味しているのか分からない。そういうものがストーリーの中盤から後半にかけて突如明らかにされる。そういうストーリーは私自身もよく書くし、そういう意味で無意識のうちにそういう構造をよく使っている。

なぜ私は「謎とき」とか「ミステリー」という言葉が嫌いなんだろうなと思う。同じ表現でも、「秘密が解き明かされる」というならわくわくするのだけど。「秘密」は好きだけど「謎」はあまり好きではないんだな。ミステリーも、別に「ミステリアス」とか「神秘的」という言葉なら嫌いではないのだけど、何だろう、その安直な何でもありの使われ方がどうにも我慢できないというか、嫌いなんだなあと思う。


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