4.村上春樹さんのデビュー作『風の歌を聴け』(講談社文庫)を読みました。(10/02 11:17)


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トルストイは「アンナ・カレーニナ」冒頭で「幸福な家庭はすべてよく似たものであるが、不幸な家庭は皆それぞれに不幸である」と言ってますが、「不幸な人」というのはそれぞれの理由で不幸なので、ひとりひとり「変わった人」になりやすい、ということもあるのだろうと思います。そんなふうにして村上さんが”Life is unfair.”という人生のある意味の真実と登場人物たちがどんなふうに付き合っているか、「救い」のように見えるものとどう対しているのか、そんなことについて描いていて、読む側ではそれを「人生の理不尽とどんなふうに付き合って行けばいいのか」「何が救いになるのか」と読み替えて読んでいることが多いのではないかと思います。

それはまあ、社会を変革して平等で公正な社会を実現しようと言う70年代までに語られていた、そして当時は色褪せつつあった正義の立場から見れば微温的でブルジョア的な問いであることは確かで、まあそれは「社会を変えようとする社会科学」「社会にはコミットせずに自分の心のもち方を変えれば何とかなると考える心理学」みたいな構図に回収されてしまっていたところがあって、まあだから私自身も村上さんの作品にあまり興味を持てなかったところがあるわけですが、社会がそんな二項対立とは違うところでどんどん変化して行って、その対立の意味も内容もまた変化して行き、むしろ村上さんがある形で社会の方にコミットして行こうと言う姿勢さえ出て来たり(そういえば田中康夫さんも県知事になったりして現実政治にコミットしようとしましたね)また変化しているとは思います。

ちょっと話を大きくし過ぎましたが、まあこの問題は戦前のオールドリベラリストの系譜と左翼改革派の系譜の対立から続いていると言えば続いている問題なので、村上春樹という存在もまたあとの時代から見れば現在我々が見ているのとは違った存在に見えるんだろうと思います。

まあそんなことはそれとして、一番印象に残った、というか好きだったのは35章と36章の九本指の彼女と港の見えるレストランで食事をしたあと、波止場を歩いている情景描写でした。

「倉庫のひとつひとつはかなり古びていて、煉瓦と煉瓦の間には深い緑色の滑らかな苔がしっかりと貼りついている。高く暗い窓には頑丈そうな鉄格子がはめられ、重く錆び付いた扉のそれぞれには貿易会社の表札がかかっていた。はっきりとした海の香りが感じられるあたりで倉庫街は途切れ、柳の並木も歯が抜けたように終わっていた。僕たちはそのまま草の茂った港湾鉄道の軌道を越え、人気のない突堤の倉庫の石段に腰を下ろし、海を眺めた。

正面には造船会社のドックの灯がともり、その隣には荷物を下ろして吃水線の上がったギリシャ籍の貨物船がまるで見捨てられたように浮かんでいる。デッキの白いペンキは潮風で赤く錆び付き、その脇腹には病人のかさぶたのように貝殻がびっしりとこびりついている。

僕たちは随分長い間口をつぐんだまま海と空と船をずっと眺めていた。夕暮れの風が海を渡り草を揺らせる間に、夕闇がゆっくりと淡い夜に変わり、いくつかの星がドックの上に瞬き始めた。」

ここは、いわば二人の沈黙の描写、沈黙の情景を描いているわけですが、ここはすごく上手いな、というか美味しいと言えばいいのか、いい描写だなと思います。

特に好きなのは「荷物を下ろして吃水線の上がったギリシャ籍の貨物船」というくだりで、ポンと物理的な浮力のイメージがそこに投げ込まれているのは私はすごく好きでした。「病人のかさぶたのように」というイメージの投げ込み方はちょっといやですが、まあそれはしょっちゅうやってますよね、村上さんは。(笑)

まあ、”Life is unfair.”というのは、ある意味物理法則のように変えられないことで、まあそれに付き合って行かなければいけない人間というものを、ある意味静かな気持ちで眺めている。この冷静さの感触と言うのがいやな人にはいやだろうし、その気づきが必要な人には評価される、という感じがします。

全ての人に受け入れられる作品は駄作だ、という話から言えば、この作品は読む人を選り好みする。数百万部売れるようになっても、多分村上さんの作品を嫌いな人は嫌いだし読む気にならない人は読む気にならないだろうなと思います。

ただまあ、私のように「食わず嫌い」で、状況に左右されて来て本当は好きだったかもしれない、ということもあるかもしれないし、まあそんな人がこのレビューを読んで村上春樹を読んでみようというきっかけになったら、まあ私としてはちょっと役に立てたかな、という気がするなあと思います。


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