【自分を大切にするとはどういうことか:共感の記憶と本質的な達成】
<画像> | 愛の矢車草―橋本治短篇小説コレクション (ちくま文庫) |
筑摩書房 |
自分を大切にしなきゃいかんな、ということを思った。きのう書いたけれども、自分にとって橋本治という人、特に『愛の矢車草』という短編集(私が持っているのは新潮文庫版)はとても重要な存在だということを再認識したのだが、今本棚でそれを探していたら、ない。郷里の方においてあるかもしれないのでまた探してみるけれども、少なくともどこに所在があるかわからない程度にはその存在を忘れていたということは言える。
どうしてそんなふうになっているのかと考えてみると、おそらく私は橋本のこの本は自分にすごく近いものを感じるだけに今となって早や敬遠し、あるいは軽く見ようとしているところがあるのではないかという気がした。もちろん全然違う人間なのだけど、橋本治という人には近いもの、共感するものを感じるところが多くあって、まあ関心を持つ分野とか論を立てる前提とかが結構違ったりはする、まあそれは多分生きてきた時代と環境の違いというところが大きいのだと思うが、対象との付き合い方みたいなものが似ている気がする。きのう書いたように「知的で、シニカルだけど、あたたかい」みたいな感じである。
まあ自分が、今ある自分にとどまってはいけない、という気持ち、あるいは強迫観念みたいなものは昔から強くあったのだけど、それがあると何かをものにしてもそこに安住すると何か天罰が下るみたいな、そういう不安みたいなものが出てきてしまうんだなとここ二三日、いろいろなことでいろいろなことの「ある達成」みたいなものがあって、感じるところがあった。何かを目指しているとき、というのはそういう意味で充実感もあるし不安もないのだが、達成して次のステージに進んだみたいなときが、一番どうなんだ大丈夫かという思いにとらわれたりする。それを達成した幸福みたいなものをやはり十分かみしめることは大切なことだと思うのだが、本当に本質的な達成であればあるだけ、そういうことに対する不安みたいなものもまた生まれる。
逆に言えば、本質的な達成ではないとどこかで感じていたり、あるいは十分に達成されていないと思っていたりする時には、無理に自分は満足しているんだと思いこもうとしたりしてしまって、実際にはそういう自分の中の異論みたいなものを排してその達成に安住しようとすることが起こったりするのとは全く違うことが起こっているということで、実際にある大きな達成をしたという実感が自分にあるということでもあり、そのことのある種の確認でもあるのだなと思った。
しかしまあ、そういう不安が出てくるということはまた、本質的な進歩というのは自分外のところにあるものを取り入れたり消化したりしてより大きくなることだとか、遠く離れたものをものにすればするほどいい、みたいなものがまだどこかに残っているのだなと思う。