37.自分自身を問い直させられる本:「表現する幸福」と「自分」というもの(03/21 21:43)


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私は年だけは食ってしまったけれども、何十年も自分のやりたいことを模索しながら来ているので、なかなかその世界での基礎になるような知識、あるいは教養というか常識というか、そういうものに欠けているところがある。これはまあ子どものころからそうで、何でも基礎を身につけるということが一番苦手だった。わかるものは何も考えなくても苦労せずに出来てしまうことが多かったので、実際にやりたいことのやり方を理解し基礎から身につけて行くという訓練を自分に課すことが非常に不得手だったのだ。自分のやり方、考え方が何か違うということはわかるのだが、どこが違うのか、どこをどう直せば出来るのか、というところがいつも全然わからなかった。勘だけで行けるところまではいくのだが、それはもちろん大した所まではいけない。しかし、点数を取るだけなら何となくできてしまうために、きちんと問題を表面化させることができずにあとに禍根を残すということが子どものころからいくつもあった。

その中で、はじめて自分なりに基礎から理解できたと思ったのが演劇の方法論だったのだが、まあこれについて書きだすときりがないので別の機会に書こうと思う。その次には教育実習で身につけたと自分では思う、授業の構成の仕方、進め方、やり方。まあこれは一斉指導の塾であるとか、高校の授業や短大の講義などいろいろに応用が利かせられたので生きていく上ではかなり役に立った技術であると言える。その次は大学院へ行っての歴史学の研究方法ということになるが、これに関しては結局は身につけきれなかったなあと思う。語学力の問題もあり、体力の問題もあり、議論の上での方法論的な理解や、史料を収集しそれを読み解いて行く根気、そして一番根本的には歴史的事象への本質的な興味関心の強さという点において、自分の限界のようなものを強く感じてしまった。

結局やってみてわかったのは、私が歴史というものに魅力を感じていたのは「語りの題材」としての面白さ、魅力であって、歴史的事象そのものを追究して行くことに実はそんなに熱意がなかったということだった。今にして思えば結局、私は語っているとき、叙述しているとき、書いているときが一番幸福なのであって、つまりは「表現する幸福」の中に生きているのだ、ということなのだ。舞台に立つことと教壇に立つことにはその幸福が共通していて、歴史的事象の探究というのはそれとはまた別のことだ。「人前に身を晒す」ということ自体が私は楽しいのだけど、最近思うのは書いているときそれ自体が楽しいということで、物語をいつまでも書いていたい、「書く幸福」の中にいたいということだ。つまり、私は身を晒すことだけでなく、表現することならばすべて幸福に感じるわけで、それは例えばカラオケでもいいし、何となくギターを爪弾いたり、電子ピアノで知っている曲のメロディに簡単な伴奏をつけて弾いてみたり、あるいは安い花でも買ってきて自分がいいと思ったように生けてみたり、こんまりさんの『人生がときめく片づけの魔法』の中に書かれていた洋服のたたみ方に従って箪笥の中をきれいに整理したりすることですら、基本的に幸福に感じる人間なのだということを理解したのだ。

まあその表現という方法使うことによる幸福の中で、生きること、つまりお金を稼ぐことに結び付いたのはわずかな例外を除けば「教えること」だけだ。しかし「教えること」というのは「教えていいこと」あるいは「教えることが望まれること=需要がある」ことは限られているわけで、やはり自分の中にあることすべてを表現することはできないし、そうやって制限をつけて行くことで自分の幸福、「表現する幸福」自体が侵食されて行くという危険もまた感じているし、実際に侵食されてしまったこともある。だからできれば教えるということが介在しない形で表現することで生きていけるということが理想だとは思う。

話は相当脱線したが、つまりあれかこれか分からないまま自分のやりたいことを模索し続けてきたために、それぞれの分野についての基礎みたいなものをきちんと身につける機会に恵まれていないまま実行していることがたくさんあって、この「物語を書く」ということもまたその一つだということをこの本を読んでまざまざと実感したのだ。


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