36.ふみふみこ『ぼくらのへんたい』と世界文学または現代アート:逃れられない三つのもの、「死」と「セックス」と「国家」/『さきくさの咲く頃』『そらいろのカニ』:愛の不可能性より愛の可能性(03/26 09:07)


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特にどうしても逃れられないテーマがセックスなのだろう。『ぼくらのへんたい』ももちろんそこに逃れられなさがあるわけだけど、現代の日本の場合はそういう性的マイノリティでもなければその問題はそんなに深刻にならない感じがする。しかし、ヨーロッパの作家たちが本当に異形の神に仕える司祭のような深刻な表情でこの問題を扱っているのを見ると、なんだか彼らはセックスというものを憎んでいるんじゃないかという感じがしてくるところがある。多分それはキリスト教文化の影響が大きいのだろう。憎みながらも愛している、そういうものとしての逃れられなさが、彼らの作品を読んでいて感じられることが多い。

アニメやキャラクターの立った小説のように物語構造で世界性を求める考えもあるだろうけど、正統的な文学の上ではやはり扱うテーマこそが重要である(もちろん描写や構成だって重要だけど)ことが多いのではないかと思うし、何が「世界の人が逃れられない問題なのか」ということを考えながら作品をつくるということが、その作品に世界性を持たせるために重要なことなのだろうと思う。

<画像>会田誠作品集 天才でごめんなさい
会田誠
青幻舎

日曜日に見た会田誠の作品は、まさにその死とセックスと国家の問題の作品化だった。しかし、それを見てだから何だというのか、というのがよくわからなかったのだけど。その辺、ちょっと上手すぎるのが逆に訴える力の弱さになっている点があるような気がした。テクニック的に上手なので、ついそっちの方を見てしまう。バイオレンスジャックの人犬みたいな女の子たちの絵はやはりグロテスクでショッキングではあるのだけど、バイオレンスジャックの方がより根源的なものがあった気がする。オオサンショウウオや滝の水と戯れる女の子たちの絵は、むしろ生命の根源への帰還みたいな意味があるのだろうか。

いずれにしても現代アートというものは、そのあたりのところに取り組まざるを得ないところがある。生きる意味、この世に生きていることの意味の根源を照射する作品であることが、どのジャンルにおいても現代アート、音楽、文学、エトセトラの一つの大前提になっているのだろうと思う。そこから同バリエーションをつけていくかはそれぞれの自由ではあるのだけど。



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