【ふみふみこ『ぼくらのへんたい』と世界文学または現代アート:逃れられない三つのもの、「死」と「セックス」と「国家」】
<画像> | ぼくらのへんたい(1) (リュウコミックス) |
クリエーター情報なし | |
徳間書店 |
ふみふみこ『ぼくらのへんたい』が面白い、ということはもう何度も書いているのだけど、それではなぜ面白いのか、と考えてみる。ふみふみこはそれまでの作品でもずっと性的マイノリティを扱った作品が多い。今少し読み始めた『さきくさの咲くころに』も従姉妹の女の子と付き合ってはみたものの、本当は男の子の方が好きだった、という男子が出てくる。そのことについての怖さ、後ろめたさみたいなものもありながら、あっけらかんと自分の欲望に忠実だったりするところもあって、作者のセクシュアリティがどういうものかはわからないのだけど、それでも彼女がこうした問題を「逃れられないもの」としてとらえているのがよくわかる。
おそらく彼女にも、何かよくわからないけれども、何か「逃れられないもの」があるのだろう。いやもちろん、すべての人間には「逃れられないもの」がある。表現者が描くものとしては、そういうものが描いてあるから面白い、ということはあるのだろうと思う。読むのが辛い時もあるくらいだから、描くのはもっと辛いのではないかと思うし、『コミックリュウ』の連載を読んでいてもおまけマンガでストレスゆえか「涙が止まらない」などの症状が出ている、というようなことが描いてあったりした。
まあただそういうものが描いてあっても読んでて辛くなるばかりではなかなか読む気がしないけれども、この作品は前にも書いたようにすごく華がある。ツイッターでほかの(男性)マンガ家が「登場人物の男の子たちを好きになってしまう」と書いていたのだけれども、これは本当によくわかる。そして彼らのおかれた状況が、中学という一番閉塞しやすい場所だということもあるだけに、閉塞した自由でない中で懸命に生きている健気さのようなものが描かれていて、そこにすごく魅かれるものがあるのだろうと思う。
考えてみたら、世界文学、すなわちローカルな文学ではなく世界性を持つ文学というものは、人である以上それから自由になれないという問題を扱っているもの、ということがあるのだと思う。これは村上隆がアートに関して書いていたことと共通するけれども、つまり「死」と「セックス」と「国家」という、現代に生きる人間がそれから自由になれない三つの問題を扱っているものが世界性を持ちうるのだと思った。
そう考えてみると、世界文学と言えばすぐ東ヨーロッパの作家たちが思い浮かぶ理由もよくわかる。死と国家には、彼らは十分翻弄されただろうし、またセックスの問題も東ヨーロッパ系の映画を見ているとかなり深刻なレベルでとらえられていることを感じることがよくある。
もう一つは幻想という問題、マジックリアリズムといったものがあって、これはポストモダンなんだかプレモダンなんだかよくわからないところがあるが、人々が半分は現実として受け入れているある種の幻想性のようなものが多分、中南米やアフリカの作家たちは持っていて、そのあたりが近代の行き詰まりを突破する何かの手がかりのようにとらえられているのではないかという気がする。幻想を持たない民族はないし、またそれに共通する元型的なものがあるという思想からハリウッド映画や日本のアニメが成功しているというのが大塚英志の分析だが、ラテンアメリカの幻想はもっとローカルな感じがして、ちょっとあまり実感としてわからない。タブッキの持つ幻想性みたいなものの方が理解できるのは、自分という幻想を日本人である私もまた共有しているからかもしれない。
まあこの辺は踏み込んでいくといろいろバリエーションは出てくるだろうけど、そういう世界性を持ちうるテーマというよりも、人間が共通して逃れられないものであるところの死とセックスと国家、を軸に考えたほうが分かりやすい気がした。