32.村上春樹『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』:「未決のひきだし」に向き合うということ(04/14 12:53)


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この小説が理解され、読まれていくとしたら、それはそういう部分でなのかもしれないと思う。村上春樹の過去の作品と比較してみたり、様々な哲学や心理学を引き合いに出して描かれた論考やレビューをいくつか読んだが、私は結局、この小説を「自分の問題」としてとらえることしか結局は興味が持てなかったし、これからもきっとそうだろうと思う。

そう、私という人間の問題と言えば問題なところは、昔からどんな話を読んでも聞いても自分の問題としてとらえてしまうところ、自他の境界があいまいになってしまうところだった。しかし、今まで私は村上の作品を、自分の問題としてとらえる、つまり共感することは一度もできなかった。この小説は初めて、最初から最後まで「自分の問題」として読むことが出来た。自分にとっては村上春樹読書史上画期的な事件なのだ。

だから正直言って、この話が私以外の人にとって面白いのかどうか、本当はよくわからない。この話はあまりに「個人的に面白い」のだ。だから私にとって問題と感じていることを同じように問題と感じている人なら、面白いだろうと思う。

描写においてもやはりすごいなと思うところはいくつかあって、若い女性の輝くばかりの魅力が、あっという間に失われていくそのあたりの描写とか、背中に何かスイッチのようなものがあるというような感覚とか、なんかそういうものはすごいと思うのだけど、それってみんなが面白いのかどうかよくわからない。単純に、ノモンハンとか四国の森の描写よりも今回のフィンランドの平原の描写の方が描けていると思うのだが、そのあたりも。

まあとにかくそういう問題認識とか面白さのとらえ方という面においては私は少数者であるという自覚があるから、ハテ本当は一体どれくらいの人が村上春樹を面白いと思うのだろうかと思うのだが、しかし思った何十倍も売れているところを見ると、私の問題意識と似たものをも持った人は実はたくさんいるのではないか、私は思ったよりも少数派ではなく、実は結構多数派なのではないかという幻想を持ってしまったりもするのだった。

もちろんそれが幻想だという認識は村上春樹新作発表という熱風が通り過ぎればすぐ、また戻ってきたりはするのだが、それに勇気づけられることもまた、私にとってものを書くことの原動力にもなっている、ということに、いつも希望は持つのだった。


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