32.村上春樹『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』:「未決のひきだし」に向き合うということ(04/14 12:53)


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灰田の語った緑川の話が、このストーリーの一番神話的な部分だろう。神話的というのは、『ねじまき鳥』で言えばノモンハン、『1Q84』で言えば猫の町、『カフカ』で言えばナカタさんということになるのだが、このことについては後で考えてみる。

過去をほじくり返して、自分の本当のありかを知る、という試みはいいのかどうかは難しい。人は歪んでしまえば歪んだまま生きていける。歪みは直すのは多分正しいことなのだが、人の生として一番その人らしく生きられる、主体にとってはそうであることはあっても、そのために失わざるを得ないものは多い。体の歪みを直すことによってさえ失われるものがあるということは整体に通っていて感じることがある。

私の中にも、過去の大きな負債というか、未解決のままにしてきたもの、作中の表現で言えば「未決の引き出し」に突っ込んだままにしていることが膨大にあって、それは「引き出しに入れる」ということによってバランスを取りながら生きてきた、「とにかく生きる」と決めて生きてきて、「生きてこられたことの証」でもあるのだが、引き出しに押し込められたものが「何とか解決してくれ」と亡霊のように自分にささやき続けている、ということもまたある。

私はそのたびに、それをやることで得るものと失うものを考え、そのバランスを取りながら、その声の求めに応じて動いてみたり、再び引き出しに仕舞ったりしている。そしてそれがやりきれなくて、「ちゃぶ台をひっくり返してしまう」ことを私は危惧している。

「ちゃぶ台をひっくり返す」こと自体を危惧しているわけではない。私は正直言って、何度もちゃぶ台をひっくり返してきた。その多くは過適応を是正するため、息苦しくなってきた自分の環境を一度壊すため、そうしないと生きていくこと自体が出来なくなってしまうと思った時だ。

おそらくは、過去の解決していない問題というのは、今すぐ解決しないと生きていくことはできないというほどの危機感で持って自分には迫ってきていないということなのだろう。しかし、それを解決しないと前に進めないという危機感を持つことはよくあるわけで、しかしそれでちゃぶ台をひっくり返したことは一度もなかった。私にとっては、とにかく生きていくことがまず大事で、瘡蓋を剥がすことで死ぬ危険があるのなら、やはりそのままにしてきたということなのだ。たとえそれがどんなに苦しいことであっても。

しかし、人は誰しもできれば晴れ晴れと生きていきたいから、解決できる範囲では解決したいと思うし、しかしその範囲でなんとかしようとすることが、その範囲を超えて自分の存在を脅かしてしまうこともよくあることだ。

沙羅の求めにつくるは自分の過去を取り戻そうとし、そして確かにつくるは自分の生の色彩を取り戻していくのだが、しかしだからこそ沙羅の存在が今までになく大きくなり、つくる自身が存在できるか否か、生き続けて行けるのか否かの許認権を握るまでになってしまう。そしてその沙羅がつくると生きるのかどうか、つまりつくるがこれからも生きられるのかどうかが次の日に示されるという未決の夜で、物語は終わる。自分の生を取り戻すということは、自分の生が終わるということなのかもしれない。

多分、緑川の語る神話の本質は、そういうことなのだ。人は触れたくない、と思っていた「未決の引き出し」に誠実に向き合うことで、その人本来の色彩や輝きを取り戻す。それさえあれば他のものすべてを詰まらないと感じ、それだけで満足してしまうような感覚を得るだろう。しかしその感覚を渡されたものは、遠からず死ななければならない。人が人の生の輝きを得るということは、人が死すべき存在であるということと引き換えにしか得られないのだ。

ファウストが、「とまれ、世界は美しい」と言ったらメフィストフェレスに魂を奪われる、という話のように。そういえば緑川はその話を、悪魔と絡めて語っていた。

灰田にとっては作への思いを現すことがその、自らの色彩を取り戻すことであり、つくるがその思いに答えないということが生の終わりであって、ある意味それは「最初から分かっていた」ことなのだろう。灰田のくだりがラストで何も触れられていないのは単にそれが伏線として未回収なのではなく、それが神話次元の話であって、ある意味現実と関わりのない話であるからだろう。

私は今、これからも物を書いていく、物語を書いていくにあたって、その「未決の引き出し」をどうやって開けていくか、という問題と直面していて、この小説はそれを考える上でのヒントや示唆に満ちている、と思った。そういう意味でこの小説は私にとって「必要な小説」であり、これを「今読め」と示されたことはシンクロニシティ以外の何ものでもない。

しかし考えてみると、私個人に限らず今の日本は、「未決の引き出し」を開けるかどうかを迫られている状況なのかもしれない。その引き出しの中には鬼が出るか蛇が出るか、それとも「希望」というものが残っていたりするのか、それすらわからない。


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