30.山岸凉子『言霊』/ホメロス『イリアス』/ラマナ・マハルシ『あるがままに』(05/15 16:16)


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【ラマナ・マハルシ『あるがままに』】

<画像>あるがままに―ラマナ・マハルシの教え
ナチュラルスピリット

マハルシの本は二冊買ったが、そのうち「私は誰か?」が収録されている『あるがままに』の方を持って帰郷。『あるがままに』の内容は難しいのだが、「私は誰か?」の方は読みやすく、自分にとっても重要なことが書いてあると思い、すぐに読了した。読めばいいというものではないが、自分に「私は誰か?」と常に問いかけるというある種の公案禅のような取り組み方が面白いと思い、昨日からずっとやっていたのだが、身体がそれに反応して元気になって来るのが面白いと思った。ただ、今日の午前中はどうも行き詰る感じがしたので少しそれを外し、違うことを考えたりやったりして、自分の現在の状態についてタロットカードを引いて考えてみたりしてみると、「私は誰か?」という問いがまたあらたな相貌を帯びて見え始め、今自分がやるべきこと、取るべき姿勢はこれだな、というようなものが見えた。

面白いなと思ったのは、「解脱を熱望するものにとって、意識の構成要素の本質を探究する必要があるでしょうか?」という問いに対し、「ゴミを捨てたいと思っている人にとって、その中身を分析したり、それが何であるかを調べたりする必要がないように、真我を知ろうとする人にとっても、意識の性質を調べたり、その構成要素を分類して数えたりする必要はない。」という答えだった。そうか意識はゴミか、と思ったが、まあ世知辛い現代ではゴミまで分類しなければいけない時代だから、ゴミに類した意識もまた丁寧に分類されて作品化されてるんだろうなあと思ったりしたのだった。「彼がするべきことは、真我を覆い隠している構成要素すべてを払いのけることである。世界はひとつの夢のようなものとみなされなければならない。」というのが答えなのだが、無や空を悟る系の教えと、有や一を悟る系の教えとでいえばこれは後者に当たるんだなと思う。

冒頭の、生きるものはすべて自らが幸福であることを願い、自らへの至上の愛があり、幸福だけがその源泉であり、存在することは意識、至福と同じである、という部分が、やはり何か自分(の意識)に欠けているものを示唆しているなと思うところがあって、やはり自分のいろいろな側面をこの曇りなき眼で確かめながら、「私は誰か?」と問うていくことが大事だなと思った。正直言って、まだまだ理解はこれからだが。


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