子供のころ好きだったものと、どう向き合うのか。私は、自分が好きなものは誰でも好きなんだろうと思ってしまうところがあり、それだけならいいのだが誰でも好きなんだからありふれているし、そのことについて特に語ったりするようなことでもない、と思うことが多かった。しかし今考えてみると必ずしもそんなことはなくて、自分の周りにいる人だって必ずしも自分の好きなものが好きなわけでもない、ということはよくあった。それに、私がものすごく熱心にそのことについて語るから、周りもそれが面白い気がしてしまう、ということもあったんじゃないかという気がする。そんなふうにして、自分の中では「誰でも絶対面白いもの」であったものがたくさんあったのだが、そのひとつがジュール・ヴェルヌ『十五少年漂流記』だった。
<画像> | 二年間の休暇 (福音館古典童話シリーズ (1)) |
ジュール・ヴェルヌ | |
福音館書店 |
高校生になった頃、その正式の題名が『二年間の休暇』であることを知ったり、また漂流物としては『ロビンソン漂流記』や『スイスのロビンソン』なども好きだったが、『十五少年漂流記』は別格だった。少年たち一人一人の個性、国籍による違い、訓練のされ方、困難への向き合い方、意見の相違が起こったときの対処。そのたびにドキドキハラハラしながら、もどかしいようにページをめくっていったのを思い出す。一人で自然の中に放り出されたら何をしなければいけないかとか、何が必要かとか、そんなことばかり考えていた。
実際、それを読んだ当時住んでいたのは山と平野の境目のような新開地のような場所だったので、山に入り込んでしまって出て来られなくなったらどうしよう、というのは無縁な空想ではなかったのだ。もちろん、好き好んで山奥に入っていかなければそんなことは起こらないのだが、わりと好き好んで入っていったりしていたから、山の中は遊び場だったし、木登りなんかもごく自然な当たり前のことだった。穴を掘ったり、崖を崩したり、落ち葉を拾ったり、木の実を集めたりするのもやろうと思えばいつでもできることだった。
穴というか、木の枝に隠れておそらくは地面がないのにあるように見えていたところで足を踏み外して左腕を折ったのもそんな時だった。整骨医に運ばれてギプスをはめたけれども、考えてみれば怪我の多い子どもだった。あんなふうに山の中にいるのがいつでもできる当たり前のことだったというのは、今考えてみるといかに貴重なことだったかと思う。