27.ティム・ボウラー『川の少年』/「出来ないことが出来るようになるということ」をめぐるいくつかの問題/能力と幸福(06/15 16:00)


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【「出来ないことが出来るようになるということ」をめぐるいくつかの問題】

今の自分を越えて行くとは、どういうことなんだろうか。

考えられることは四つある。一つ目は、今の自分の、力をどんどん伸ばして行って、今よりもさらに今やれていることができるようになること。これは一番ノーマルな形。

二つ目は、今できないことにトライして、出来るようになって行くこと。出来ることを広げていくこと。これは、今できることよりも今はできないことに注力することになるから、それをやることによって今できていることの力が落ちる、ないしは今できていることができなくなるんじゃないかという恐怖心が伴うことがある。それは故なしとはしないのだけど、それが今できていることにとってもプラスになる、という有機的な連関が確保されるのであれば、プラスになると考えていいだろう。しかし逆に、ある能力を高めることによってある能力が下がるということもあり得る。視力を失うと、超感覚的な勘が高まるということがあり、逆に言えばその感があまり鋭くならないようにすることで視力を失うことを防ぐ、ということが野口整体ではあるということを甲野善紀氏が書いていた。これはそういうことはあると思う。出来ないことができるようになるというのは、ある意味両刃の剣だということだ。

三つ目は、今の自分を否定し、今の自分にない力を身につけようとすること。今できることを否定して、出来ないことをできるようしようと努力すること。

こう書いてみると不自然なことは明らかなのだが、私にはどうもそういう傾向があったなと思う。自己否定癖というか、今できることは大したことはないのだと思いこみ、その力や関心を伸ばそうとせず、自分が羨ましいと思う、憧れる力に魅かれて行く。しかし実際のところ、それは本当にやりたいことではないというか、過去の自分を否定することで過去の自分が本当に好きだったもの、関心があったものも否定することになり、何が本当に好きなのか分からなくなってしまうということが起こる。たぶん日本には、いや日本だけではないが、そういう形で好きだったものを捨てさせられた人たちがたくさんいて、それを描いた古典的な作品が『市民ケーン』だけれども、市民ケーンは何が好きなのか知っているだけましで、何が好きなのかさえ分からなくなって自分を見失っている人が、世の中にはたくさんいるのではないかと思う。

そんなふうに自己否定してしまうのはなぜなんだろうか。

完全にそれで説明がつくかどうかは分からないが、私が思ったのは「闇雲な向上心」みたいなものがあるからじゃないかということだった。とにかく今の自分にとどまっていてはならない、とにかく前に進まなければならないという気持ち。それは多分、痛切な自己嫌悪を経験したことがある人には、そういう焦りにも似た気持ちは理解されるのではないかと思う。中島みゆきの『泥海の中から』に「ふり返れ歩き出せ 悔むだけでは変わらない 繰り返すその前に 明日は少しましになれ」という歌詞があるが、どう「まし」になればいいのか分からない、けれども「まし」にならなければならない、という痛切さを感じてしまう。

しかし、そういうアップセットした状態で一歩一歩確実に前に進むことはできないわけで、自分がいろいろ空回りしてきたのもそういう「やみくもな向上心」みたいなものが原因なんだろうなと思った。こういうところは自分にはすごく昔からあって、一度落ち込むと周りが暗黒になってしまい、そういう自分に耐えられない、というところが子どものころからあった。今でもそういう部分は皆無ではないが、つまりそういう「暗黒の落ち込み」みたいなものをとにかくどうにかしたい、そういうときにはとにかく何か目標を持って努力することで最悪の落ち込みからは逃れられる、ということを経験的に知ってきたからだろうと思う。

つまり、一番危ないのは何かをやり遂げて満足している瞬間で、満足感が意識を覆っている間はいいが、それが薄れて来ると暗黒がぱっくりと口を開ける、ということが良くある。若いころはそうなると唖然呆然してしまい、またその暗黒から抜け出すのに長く苦しむということになったのだけど、最近ではとにかく目標を持つ、やみくもでもいいから何か目標を持つということでその場面を乗り切るという感じになっている。

だから、そういうときはある意味死の恐怖ないしはそれに似たものと戦っているわけで、死の恐怖を乗り越えるためには生きる意志を持つ、それを強く持つしかないわけだから、まあそういうやみくもな向上心というのはある意味盲目的な生きる意志でもあるのだった。


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