261.悲しみを乗り越える過程でわかること(03/14 11:10)


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なんとなく体調がすぐれないときにハードなものは読みたくないなと思っていたのだが、金曜の午後は荒れた天気で、気分もすぐれなかった。第一寒い。お昼頃は雪だったのだが途中から雨になる。ストーブの近くで横になっていたが、それでもぱらぱらと目を通して、『NANA』21巻の「作者の言葉」に目が吸い寄せられた。

<画像>NANA 21 (21) (りぼんマスコットコミックス クッキー)
矢沢 あい
集英社

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この巻はどのシーンを書いていても辛くて筆が進まず苦しんだけれども、皐が出てくるとホッとしたのだという。中でもヤスと皐が一緒にいるコマは妙に癒されたという。これを読んで、このハードな作品でいちばん大変なのは作者自身なのだということに気づかされたのだった。『テレプシコーラ』でも千花の死に作者の山岸涼子自身がとても苦しんだ形跡を感じたのだけれど、『NANA』でもやはり矢沢あいの辛さは一通りのものではなかっただろうと思った。矢沢も山岸もきちんとストーリーを考えて、最初からそこに向かって進んでいるから避けて通れない展開になってしまう、特に『NANA』は未来の場面が出てくるので絶対に逃げられないのだけれど、あえてそういう苦しみを自分に課してしまう業のようなものが作家という人種にはあるのだなあと改めて思った。

悲しみや苦しみをまったく経験しないことは人間生活において不可能だけれども、どうやってそれを乗り越え、乗り切るかということ。その方法を見つけ出すこと。それは表現において大きなテーマとされることは多い。そしてそれを乗り越えるための、「心理学」的な手法や、あるいは宗教、占い、その他さまざまなものが考え出され、投入されている。しかし悲しんでいる、苦しんでいる主体の変化は、外からのそうした働きかけだけではその状態を脱することは難しい。主体自身が一歩前に踏み出さなければ出来ないことは確かなのだが、生きている限り悲しみや苦しみはいつかは過ぎ去っていく。その過程においてその状態から脱け出すきっかけに、そうしたさまざまな働きかけがなるということは十分あることで、その過程を進めるサポートになることも十分あることだ。大きな悲しみや苦しみの前では芸術は無力だと感じてしまうことは多いのだけど、人がよりよく生きるための手助けにいつのまにかなっているのが芸術なんだと思う。

昨日は調子が悪いのでそういう悲しいものは読みたくない、というようなことを書いたけれども、でもそういうものでもない、ということも思い出した。調子が悪いときにこそ、むしろそういう読むのが厳しいものを読んだり書いたりしたほうがいいという面もあるなとあとで思った。


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