ぱらぱらとページをめくり、放哉の真骨頂、自由律の時代の句をいくつか読んでみる。
釘箱の釘がみんな曲がつて居る
百姓らしい顔が庫裏の戸をあけた
朝がきれいで鈴を振るお遍路さん
うつろの心に眼が二つあいてゐる
咳をしても一人
最後の句は、確か中学生の時に教科書で初めて読んで、衝撃を受けた句だ。これを俳句と言っていいのか。自由律、という言葉にも強く魅かれた。定型さえ捨ててしまうことができて、それでなお俳句である、と。
考えてみたら、放哉は私が最も素直に衝撃を受け、すごいと思った俳人であって、それはある意味口語自由詩の萩原朔太郎・谷川俊太郎、短歌の与謝野晶子、短詩の八木重吉にも匹敵する存在だった。なかなか手頃な作品集がなくてきちんと読んでいなかったのだが、この本には私の今の行き詰まりを打開する何かヒントがある、と直観的に思い、買うことにした。
後者にあって前者にないもの。もちろん技巧的なものもあるけれども、技巧的なレベルを上げて行けば後者になるというものではない。写実と、その感じたことをどさっと投げ出す思い切りの良い投げだし方。この句を詠む放哉が、その時どんな人間なのかも彷彿とするとともに、「釘箱」「庫裏」「百姓らしい顔」「お遍路さん」「うつろの心」「咳」「一人」それぞれの言葉が持つ、文化的背景とでもいうべきものの力。確かに放哉が、その場で生きている、その確かさを裏付ける力が、それらの言葉に感じられる。
蚊帳の中で添乳させる若い母親。これが後年の同じような情景になるとこうだ。
すばらしい乳房だ蚊が居る
子に乳をやるということに蚊を組み合わせるのは同じだが、迫力は全く違う。若い頃の作品は、その作品が自分の人生から見てどこかよそ事で、きれいに絵を描いて満足している感じがする。それぞれ句の持つユーモラスな部分は後年の作品にも同じものが感じられるが、簡単に言えば平凡だ。見たまま感じたままを写生という、その言葉通りに詠んではいるのだけど、やはり頭で感心するようにできている。
頭で詠んだ、たましいで詠んだ、ということは簡単なのだが、多分それでは何も言っていないに等しくて、おそらくは詠んだ対象に対する視線の深さ、それらのもの・人の持つ文化的背景と、同時に自分自身を照らし返す視線がある。釘箱の釘がみな曲がっている。自分はどうだろう。百姓らしい顔が見えた。自分はどんな顔をしているのか。きれいな朝だ。心が弾んで鈴を振っているのはお遍路さんだけではない。自画像を描いてみる。うつろな心、ただものを凝視している眼だけが開いている。ただ一人で咳をしている、その自分を見ている自分がいる。
文化的伝統、文化的背景とは、自分がそこに生きているということだ。受け継いできた時代の流れを自分が見ている。この時代の中で、自分がどういう人間として今ここにいるか。その自己認識をそのまま、表出している。表現と自己が一体になっている。
その場でそこまで考えたわけではないが、放哉の句の前期と後期の違いは文化的伝統だ、ということは直観的に思った。そして、私の作品に欠けているものもそれではないかと思った。私はあえて文化的伝統とかかわりのないこと、自然なこと、自分だけが感じられるオリジナルなことを書こうとしていたから。