22.ベラスケスの謎と小人の誇り/シュペルリ:肉体美を見せるバレエ芸術/バカな怠けものと『メッテルニヒの回想録』(08/28 15:43)


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しかしその視線は非常に興味深い。当時のスペイン宮廷では小人であるとか奇妙な身体的特徴を持ったものが多く出入りしていた。主人公のニコラシーリョもイタリアの小貴族の家庭に生まれながら身長が伸びないことが分かってスペイン宮廷に連れて行かれ、そこで持ち前の才能を発揮して国王の執事にまでなり、多額の資産を残すという異例の出世を遂げた人物だ。そこでは「小人」たちは愛玩、玩弄、道化、と言った見世物的要素を期待されながら、力と誇りさえあればそこから出世さえして行くという不思議なスペイン的世界が広がっている。このことについて掘り下げて言うほど準備はしてないのだけど、スルバランの描く素焼きの皿が神々しいまでの精神性を持っていたり、『わが父パードレ・マエストロ』に描かれた枢機卿の隠し子が「女枢機卿」という綽名の有名な売春婦になっていて枢機卿の死に臨んで娘と和解したりすることと共通する、スペイン的な人間観・事物観・世界観・宗教観のようなものを感じる。

日本では「草木国土悉皆成仏」という言葉があるように森羅万象に仏性が宿る、という世界観があるが、その背景にあるのはアニミズムだと感じられるのだけど、スペインの場合はもっと徹底した「神の前の平等」的な世界観があるような気がする。奴隷は商人にひどい扱いを受けたりするのだけど、でも国王も奴隷も神の前では平等だ、みたいな感じがある。ものすごい封建社会ではあるのに、不思議な風通しの良さがあって、スペインは一つの哲学だ、と言いたくなるようなものを感じる。

ベラスケスは、宮廷につかえたり出入りしたりしているこうした「不具者」を描いた肖像画をいくつも描いているのだが、その視線は透徹していて、同情もなく侮蔑もなく、威厳を持ったものは威厳を持ったように描き、かわいいものは可愛く、利発なものは利発に描いている。何というかその対象へのせまり方は、フェリーニの視線のようなものを感じる。もちろん、フェリーニの視線の方がずっと皮肉なのだが、フェリーニが突飛なものをどんどん画面に取り込んでいくのと同じような感覚がベラスケスの絵を見ているとすることがあって、まあ神棚に祭らないで彼の絵を見ていると、たぶんそんな世界のとらえ方が彼にはあったのだろうなと思わせる。

しかしこの作品で一番好きな場面は、ニコラシーリョがはじめて国王の前に呼ばれた時のことだ。貴族と悶着を起こしたことが国王にばれ、その理由を詰問されて「愚弄を避けようとしただけだ」と答えたら、国王に「なりに似合わず、ずいぶん矜持が高いものよのう」と言われ、黙っていたら王が歩み寄ってきて顔を上に向かせ、「余のもとで仕えたければ、その誇りを大事にせい」と言われる、という場面だ。

これが創作なのか、ニコラシーリョが残した文書に書かれていることなのかは知らないが、この一言でフェリペ4世という今まで凡庸としか思っていなかった君主のイメージが全く変わった。その「誇り」こそが現代を生きる人々にも必要なものなのだと思う。



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