それから3階の文庫コーナーを物色していて、寺山修司『戦後詩 ユリシーズの不在』(講談社文芸文庫、2013)を見つけ、立ち読みしているうちにこれは自分が今考えていることをどう表現するかというテーマに関係してくる何かがあると思い、買った。私が今書こうとしているのは人が生きるということはどういうことなのか、どういう生き方があるのかというようなことを個人の面、社会の面、世界から見て、もっと大きく見て、みたいないくつかのディメンジョンから見てみたいというようなことなのだけど、その時にどういう言葉で、どういう語り口で、どういう構成で書くのかということがかなり死命を決することになるのではないかという気がする。寺山は「印刷活字の画一性によって言葉が「人間の道具」から「社会の道具」に変えられ、それによって「戦後詩」が人の心に触れあわなくなってしまった、ということを言っていて、それはそうだよなあと思った。
活字の画一性を捨てて個人を復権できる他の伝達手段を選ぶか、活字に見合うような社会的な文学に変質するかの二者択一、というのはかなり重要な問題提起で、そういうことに敏感な作者でさえ「パン屑にありつこうとする貧しい時代のブルースを書こうとして、いつの間にか個人の情念を捨て、社会的マニフェストにのめり込んでいる」と指摘している。それは社会に認められた通りの情念の発現というか、いわば出来合いのわかりやすい、しかし型通りの演技や義憤や情念の爆発の「月並みな」表現に陥りがちな表現のパターン、もっと深く考え、深く感じていてもその表現を差し控え、ここまでなら共感可能だろうというところで抑える、逆に言えばその月並み表現を増幅させることで確実に得られる感動を当てにする路線みたいなものとある意味共通するものがある。
とそういうことを書いていて、でもまあそういうこともできないと確実に人の心に届くようなものは作れないなあとも思った。私はそういうのがあまり好きではないので、このブログの文章もそうだが、感情表現になると敢えて微妙な部分は書くけれどもあまりにも明らかな感情みたいなものはあまりあからさまに描いたりしない傾向がある。まあそこの呼吸のようなものは現代の空気の中でつかむべきものでもあるかもしれず、書き方みたいなものはいろいろと考えられるべきだなとは思った。
それでは自分が書こうとしている文章はどういう文体で書かれるべきかということになるのだが、それはまあ考えていてもよくわからないので、いろいろと試しながら書いてみるしかないということなんだろうなとは思った。
寺山の文章というのは斜に構えているというか、読んでいて下手に共感すると悪場所に連れて行かれるようなところがあることが多いので結構警戒して読み始めたのだが、この本に関してはかなり実直に書いているのでどうもあまり警戒しないでもよさそうな感じがしてきた。寺山自身もあとがきで「批評とはなんという醒めた仕事だろう。……私はこれを書きながら、終始他人である自分を感じて苛立たしかった。……それはきわめて孤独な仕事であった。そして「孤独の難しさは、それを全体として処するところにある」限り、私の批評もまたたやすく受け入れられないものと思われる。」と書いていて、つまりは彼自身が隔靴掻痒を感じながら書いていたのだなと思う。ただおそらく、だからこそこの書は信用できる、と思えるところがある。まだ読み始めたばかりだが、いろいろ受け取れるものがある気がする。