19.俳句の詠み方と小説の書き方/藤野可織『爪と目』を読んだ(09/20 17:48)


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選評や作者インタビューを読んだ限りでのこの作品の印象は、「世代的に同じ人たちが触れてきたもの」を踏まえておけばけっこう分かるのではないか、というものだった。(余談だが、『進撃の巨人』はそういう認識を全くはるかに超えていて、恐怖とか違和感とかに負けずにきちんと筋立てを読みとれるようになるまで一年はかかった気がする。まあそういうものに慣れていないということも大きかったが)作者のインタビューには「小説は情報だということをいつも意識している」とか「正確に記述することを心がけている」とか、「映画やマンガの怖いシーンは、ある美意識のもとに、凄く考え抜かれた構図で作ってあると思う」とか、すごく言っていることが分かりやすい。分かりやすい、普通の読者にとって受け入れやすい感性なんだなと思う。

好きな作品として絵本の武田和子『魔女と笛ふき』があげられていて、この中の変身とか誘拐とかいうモチーフがこの作品に入っているのだという。いじめられて不登校になっていた小学校三年生の時に見ていたのもディズニー映画やジブリ映画だったそうで、この人は全くわけのわからないものを書きそうだという不安、あるいは期待みたいなものがあまりない。今はそういうあまり抵抗のないものを読んで勉強した方がいいような気がして、結局買うことにしたのだ。

<画像>爪と目
藤野可織
新潮社

読み始めると確かに不思議な意匠で書かれているという印象。父の不倫相手が「あなた」という名前で呼ばれ、父の娘が「わたし」と呼ばれている。しかしこれは慣れてしまえばそんなに違和感もないと思った。そういう約束事だと思えばいい、という感じ。二人称小説、と評されているが、今まで読んだ範囲で言えばイシグロの『日の名残』のほうがずっとある意味二人称が生かされているように思う。

読み終えてみると、思ったより面白かったという感じ。それはつまり、最後がある種の復讐譚になっていて、無力な女の子の猟奇性が最後に露わにされる、ということだろうか。主人公である「あなた」は、まあもちろん「いい人」ではないのだが、きわめて「ふつう」である気がした。付き合いたくはないが。いや、何と言うのだろう、こういう人を「ふつう」と感じるのは、ネット上で読む女性のホンネ的なものを踏まえて初めて「ふつう」という感じがするのだろう。まあそういう意味ではこの「ふつう」感はある種のヴァーチャルリアリティだ。

途中、「あなた」が不倫相手だった「わたし」の父の亡くなった妻の「すきとおる日々」と題されたブログを読みふけり、「お試し同棲」を「わたし」と私の父としているその生活を、妻がしたかったようなものを買い揃えてそれを真似て行くことに夢中になったりするのは、まあやはり何らかのサイコ感はあるのだけど、そういうこともあるんだろうなあという何と言うか「ふつう」感がそこにもある。この人にとってネットやブログやパソコンは外在的なアイテムではなく、自分の存在に深く根を下ろしている、いやそれは私やこれを読んでいる人と同じくらいには自分の中に根を下ろしている「もの」として書いているという感があり、今まで読んだ中で最も「自分自身の延長としてのネット」感が書かれていると思ったし、たぶんそこが新しいんじゃないかと思った。まあそういう小説はこれからいくらでも書かれるだろうと思うけど、たぶんこういう「ネット主婦」のあり方は本当に今のある種の「ふつう」を書いてるように思う。

作者の言うような意味で、この小説のラストの場面が「ある美意識のもと、考え抜かれた構図で作られている」と言えるかどうかはやや難しい感じがする。どうも何と言うか、ごちゃごちゃしているというか、爪を噛む少女のメタファーは分かりやすいけれども、ドライアイであることが「あなた」の存在の何のメタファーなのかが良くわからない。その辺が少し惜しい感じがした。

何と言うか小説を書く技術という観点から見ると、上手く行っている点もどうかという点も両方あって、そういう意味でも勉強になると言えるようには思った。


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