19.俳句の詠み方と小説の書き方/藤野可織『爪と目』を読んだ(09/20 17:48)


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【俳句の詠み方と小説の書き方】

やたらと忙しく疲れていた。昨夜は持ち越しにしてあった仕事を2時半までかかって片付け、6時半には起きた。疲れてはいたが、大変な時こそ前向きに、明るくやらないとな、と思った。そう思ったら心が軽くなるくらいには元気だったようで、とりあえず明るい気分でいろいろなことをしている。

<画像>本の木の森
堀田耕介
パブー

昨日いろいろ話をしていて、久しぶりに私の小説を読んでみたいという人が現れたので少し嬉しくなって、冊子になっていたものを用意したり長編を印刷したりして渡す準備をした。ネットの方に出してあるのはときどき思い出したようにamazonやパブーで買ってくれる人がいるがやはり100円の『ガール』の方ばかりで、なかなか1000円という値つけをした『本の木の森』の方は買ってもらえない。まあそれは買う側になってみたらそんなものだよなあと思う。面白いかどうかわからない名前も知らない作者の本を1000円出して買おうというモノ好きはなかなかいないだろうと思う。そういう意味では、100円くらいで出せる短編をいくつか書いて、それをamazonやパブーに出して誰かが読んでくれるのを待つ、というのがまだ現実的なやり方なのかもしれないと思った。

<画像>ガール
堀田耕介
パブー

今朝母と話をしていて、母はここ数年俳句の会に出席しているのだが、そういうものにもともとあまり縁のない人なので、新しい句の提出の前は毎回呻吟している。見てくれというから見てみるのだが、発想は面白いと思うのがときどきあるのだけどそれがなかなか句になっていない。俳句というものは五七五の定型詩だから、やはりそこに表現できる詩想というのはやはり形式によって拘束される。五七五で読む人が何をうたっているのかわかる内容というのはやはり限られて来る。それに季語とかいろいろな約束事があるから、ますます詠める内容は限定されて来るのだが、逆に言えばそれがぴたっときまった時はなかなか快感がある。

私は詩を書いていたことはあるし(いまでもときどき書くが)小学生の頃は俳句を作るのがけっこう好きで入選もしたことがあったが、専門的なことを学んだわけではないし句会に参加したこともないので本当は偉そうなことは言えないのだが、やはり俳句であっても結局は詩であると思うし、そういう意味では句のいのちがポエジーであることには違いないと思う。特に俳句というものは、まあ私の考え方かもしれないが、「異色のもの、違うものが出会うこと」にあるのだと思う。まあ「ミシンと蝙蝠傘の出会い」みたいなことだけど、視覚と記憶の出会い、聴覚と諧謔味の出会い、字面とイメージのギャップ、そういう取り合わせの新鮮さみたいなものに意味があるのだと思う。まあ新鮮であればいいというわけでなく、やはりそこにポエジ―は必要だし、また季節をうたうという大前提があるので季語も入れて季節感を出す必要がある。


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