17.苛立ちと創造:表現者タイプと賢人タイプ/「これじゃない!こうなんだ!」:「苛立ち」に対する自己否定感を克服すること/行動メモ(10/07 16:37)


< ページ移動: 1 2 3 4 5 >

賢人タイプというのは、一番わかりやすい例で言えば諸葛孔明だ。世の中はこのままではいかんと常に苛立ちを抱えている人々の中で、悠々自適で草庵に籠っているが、劉備玄徳に三顧の礼で迎えられ、世の中を変える働きをし(彼の場合で言えば天下三分の計による曹操の中国統一阻止)、最後まで劉備の王朝のために仕え、誠意を尽くす。まあこのタイプの方が世の中に好まれるらしく、そういうタイプとして語られる人は多い。野心は秘めていても、自分からは動かず担ぎ出されるのを待つ、という演出をする人もいる。

このタイプが好まれるのは、やはりこのタイプに「天才」とか「才能」とか「器の大きさ」のようなものを感じさせるところがあるからだろう。中山茂が『パラダイムと科学革命の歴史』の中で記述的学問と論争的学問という例を挙げていたが、ヨーロッパが論争的学問の歴史であるのに対して東アジアでは「桃李いわざれども下自ずから径をなす」的な、徳を慕って人が集まるという構図を好むところがある。才能・能力・人徳を起源・根拠とする家父長制というか、そういうものが社会構成原理になっているからなのだろう。

「思いもかけぬ才能が野に埋もれていた」というのはなぜだか人を喜ばせる構図であって、つまりは若い時から目立ったエリートだけが選ばれた人間なんじゃないよと言う民衆のルサンチマンというか判官びいきのような心情を満たすところがあるからなんだろう。

まあそれはともかく、そういう形での賢人タイプが彗星のように現れるとカリスマ的な人気を持つことがある。私に関わりのあった例で言えば山岸会の山岸巳代蔵や野口整体の野口晴哉などもまた少なくともそういう伝説を持っている。

そういう人たちは人知れず自分の道を究めてある時急に世に現れる。現れたときには体系は完成されていて、その時の社会に対するアンチテーゼ、オルタナティブとしてその時の社会に満たされないものを感じていた人たちが一斉にそちらの方を向く、ということがある。価値観が多様化した現代では昔ほどの衝撃力は持たないだろうけど、それでも賢人タイプの持つ力というのは凄い。

そういう人たちも、もともとは世の中に対する「これじゃない!」という苛立ちや怒りがその究明の原動力だったということもあるだろうとは思うが、そういう人たちにはむしろそういう怒りや苛立ちに対し否定的な見解を示す人が多い気がする。まあそこが、「賢人」という感じがするところなのだが。



< ページ移動: 1 2 3 4 5 >

17/262

コメント投稿
次の記事へ >
< 前の記事へ
一覧へ戻る

Powered by
MT4i v2.21