【コンテンツはどう受け取られるか】
コンテンツ、というものはいろいろあるが、たとえば宗教、スポーツ、文学、科学というものもコンテンツだろう。
スポーツも自分でやるという意味のスポーツからはかなり長いあいだ離れてしまっているが、見るという意味なら今でも時々見ているし、もはや見ることがなくてもレッドソックス上原のワールドシリーズでの活躍や楽天田中の今シーズンの驚異的な活躍には関心を持っていて、結果を知ってそうか、と思うことも多い。
私は日本ハムファイターズのファンなのだが、実際のところ、北海道に本拠地を移転してからは一度も試合を見に行ったことがない。ダルビッシュも一度は見たかったのだが見ないうちにアメリカへ行ってしまった。
面白いのは、スポーツというコンテンツが実際に試合を見なくても、テレビさえ見なくても、コンテンツとして成立しているところである。結果だけを見てああよかったと思ったり、今シーズンはだめだなと思ったりする。そういう意味でのスポーツというのは基本的に一喜一憂するのが楽しい、というものだ。気分が盛り上がってきたらテレビを見たり、試合を見に行ったりする。球団としてはあまりメリットのないファンではあるが、そういう潜在的なファンがあることは大事なことだと思う。
これは読書でもそうだ。
村上春樹のファンだ、という人に話を聞いて見ても、全部読んでいるとは限らない。でもファンだ、ということもあるだろう。音楽でもそうで、私はYuiという人の曲は「again」しか知らないが、しかしこの人の音楽的センスは好きだなと思う。逆に言えば、他の曲を知ることでイメージが壊れるのが避けているというところもある。そうなって来るとつくり手にとっては厄介だ。
そういうコンテンツというものが存在しているということを知り、その一部をいいなあと思っても、それ以上に近づこうとするとは限らない。でもたぶん、そういう人の存在が、そのコンテンツを支えているというところが多いのだろう。
熱狂的なコアなファンを必要とするジャンルもあれば、大衆的なジャンルでは広く薄く浸透することの方が大事な場合もある。そこに時代の雰囲気が作られ共有されて行く。
宗教や科学でもそういうことはあるのではないか。
葬式を僧侶を呼んで執り行うという家はまだまだ多いと思うが、実際にそのお寺の熱心な檀家であるという人はそう多くはないだろう。クリスマスには教会に行ってみてミサの厳かな雰囲気に感激しても、洗礼を受ける人はそう多くはないだろう。
ノーベル賞を受賞したジャンルが急に取り上げられ、にわかにしばらくの間それに関心を持って見るが、ずっと持ち続けるわけではない、という人も多いだろう。
宗教も科学もスポーツも、もちろん人によっては単なるコンテンツというより生き方になる人はいる。もちろんそれはそれらがそれだけの力を内在させているからだ。
それらの人は、自分の生き方の芯に、それらのものを据えた人々だ。しかし、皆がそういうわけではない。
多くの人は、それらのそれぞれからそれぞれの範囲で生きる栄養を補給し、自分の生き方をそれぞれに作っている。
ことさらに新しい何かと思わなくても、それぞれにその人にしかできない何かをやって、その人にしか作れない何かを作っているのだと思う。
ものを作る人は、それを自覚した方がいい。
自分の作るものは、みんなの栄養の一部なのだ。
それはもちろん、考えてみれば当たり前なのだが。
ある本のある言葉を心の支えにして生き抜いていく人もいれば、Jリーグチームのサポーターとして試合を追いかけることを生きがいにしている人もいるだろう。
自分の作るものは、その人にとって、ほんのわずかなものなのだ。しかし、それがすべてを変える力を持つかもしれない。
ほとんど関心を持たずに聞き流していた宗教の言葉にある日急にとらえられ、一生を伝道にささげることになる人だっている。
そんなふうになるのは、ほんの偶然のことかもしれないのだ。