14.『かぐや姫の物語』は、一言で言えば、「どこまでも味わい尽くしたくなる映画」だった(12/02 12:02)


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語り始めると本当に饒舌になってしまうのだが、この映画は本当に埋め込まれたそれぞれのことがそれぞれ底なしに深くて、高畑監督の底なしの世界の広がりが、教養面もそうだし、思考面もそうだし、違和感を恐れない(それは興行的には必ずしもプラスではないだろう)制作態度も、いまの日本でこれだけのことをやってのけられる監督はほかにいないだろうと思わされた。炭焼きで出ている仲代達也がどこかの本で「日本の劇映画は今ジブリ作品に完全に負けている」と自らを含む映画界の奮起を促していたが、これだけのことができる人がいま日本にいるということは、それだけで素晴らしいことなのだとは思った。

ジブリの映画、特に宮崎監督の映画に出てくる登場人物たちはみな「今の自分を超えて行こう」とする人たちなのだが、高畑監督の登場人物はそうではない。今回のかぐや姫も、ある意味そういう前向きな人たちではない。運命を楽しみ、運命に抗い、激しく抗議し、受け入れ、そして本当の運命を知って、この世に生きることを肯定し、それを強い言葉で述べようとしたときに月の世界の衣を着せられて、「清浄な世界」へと還って行く。『Switch』の対談で川上量生はプロデューサーの西村義明にこれは「女性視点の物語だ」と言い、「(僕の)彼女のわがままは受け入れて上げなきゃだめだな」と思ったのだそうだ。私自身はいつの間にかかぐや姫に一人称の思い入れをして見ていたので女性視点とかなんとかいうことは思いつかなかったが、むしろ「こうやって世の中のルールを受け入れて行かなきゃいけないんだよなー、辛いよな、生きるのは」みたいに見ていた。だからむしろ、「自分のわがままは自分が受け入れなければいけないな」ということなんだと思った。

まだまだ言いたいことは進化中で、たぶん書けば書くほど書きたいことは増えるしまた変化していくので、今の段階での感想という形でこのような形にしておこうと思う。

そんなふうに、『かぐや姫の物語』はどこまでも味わい尽くしたくなる映画だった。鍋のあとにご飯を入れておじやにしても、何度でも食べられそうな感じなのだ。


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