14.『かぐや姫の物語』は、一言で言えば、「どこまでも味わい尽くしたくなる映画」だった(12/02 12:02)


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<画像>風立ちぬ サウンドトラック
徳間ジャパンコミュニケーションズ

まあこのことは言い出せばきりがないんであって、一度取り締まる決まりが、非難する口実ができるとこの程度の描写も児童ポルノまがいに言い立てるのはどうかと思う。

日本では、子どもが裸で走り回ったり、お母さんが電車の中で授乳したりするのは昭和40年代でさえ珍しくなかった。それを持って野蛮の象徴のようにしたり顔をする人種差別感情もどうかと思うし、それに迎合しようとする植民地的文化人もどうかと思う。一つ目小僧の国で二つ目が差別されても、二つ目が二つ目の文化を譲る必要はないだろう。

……なんだかムキになったが、とはいえ日本でも都会から順番にそういうものを隠す方向へ動いていることは事実ではあるので、ある意味無駄な抵抗かもしれないが、まあだからこそそういう子どもがはしゃいでる裸な姿にいのちの輝きを見せようとする意図が意味あるものに見えるのかもしれない。

そういう場面を経て、かぐや姫と翁と媼は都に出て大きな屋敷に住み、相模という家庭教師をつけ、斎部秋田という学者に「なよ竹のかぐや姫」という名前を付けてもらい、髪上げの儀式が行われ、お披露目が行われる。ここのあれよあれよという展開の中で、かぐや姫の「自然」が奪われ、「文化・社会」の中に押し込められていく。それに抵抗しつつ翁の願いを無礙にもできず庭に田舎の風景を再現するなど、姫はバランスを取りながら順応しようとしていくのだが、自分が御簾の中にいたまま開かれるお披露目の宴会の席で侮辱的な言葉を聞き、我慢しきれなくなった姫が屋敷を抜け出してもと住んでいた田舎の家を訪ねるが、もう誰もいなくなっていて、ぼろぼろの姿で家の前に立った姫の前に施しが置かれる。

ここがまた一つ印象に残るのだが、彼女はそれを拒まない。もらってよかったと思っているのか、その握り飯をほおばりながら降りていくと炭焼きをする老人がいて、木地師たちは木を求めて場所を変えて行った(この辺、放浪民を描く網野史学が踏まえられていて、その意味で『もののけ姫』にも通じる世界がある)と姫に教える。雪の中姫は倒れれるが、気がつくと元の御簾の中にいる。この雪の描写と姫が来た衣装の純白の色が重なっているところは、絵で見せるアニメーションだからできることで、それが後に出てくる月の世界の真っ白な(色のない)清らかさに通じていく。

この炭焼きの声が実は仲代達也だ。この「大物がちょっとだけでる」という手法は芝居や映画では、「御馳走」と呼ばれるわけだけど、この映画ではほかに石作の皇子の北の方(まあ平安時代に北の方という呼称はないと思うが)の声を朝丘雪路がやっているというのもある。

朝丘はともかく、仲代もそうだけど、そのほかのキャラクターがみな声優をやった人たちの顔や姿かたちをどことなく思わせる風貌になっているのも、プレスコアリングというこの映画の特性が生かされているから、ということになるだろう。

話はさらに脱線するが、私がこの映画で一番好きなキャラは(まあ主役のかぐや姫をのぞけばということだが)「女の童」(かぐや姫に仕える童女)なのだけど、この声をしている方はずいぶんきりっとした女優さんだ。この役はなんというか、いわゆる「おいしい役」で、まあ、私は芝居をしていた時によくこの種の役を演じていたので、なんだか思い入れを持ちやすいのかもしれないという気もする。ある種のトリックスターだから、構造がしっかりすればするほどその枠に収まりきれないで目立つことができる。印象に残る。


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