12.時間に追われているというより時間をかき集めている/『くるみ割り人形』を聞いてチャイコフスキーが描きだすロシアの幻想性について考えた(12/27 15:36)


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<画像>舞姫 1―テレプシコーラ (MFコミックス ダ・ヴィンチシリーズ)
山岸凉子
メディアファクトリー

しかし、『テレプシコーラ』などのバレエマンガを読んだり、それに触発されてバレエの公演を見に行ったりするようになってから、少なくともバレエ音楽としてのチャイコフスキーはよくできていると思うようになった。舞台ではある意味の「あざとさ」とか「ダサさ」とかが必要になって来る。舞台は必ずしも教養があるとは限らない王侯や大衆のものだからだ。分かりやすくするために「くどい」表現も必要になる。上品でさらっとしていなくはなくても、ある意味「これでもか」というところが必要になる。

今朝『くるみ割り人形』を聞いてなんだか懐かしさを覚えたのは、そういうバレエをよく見に行っていた頃のことを思い出したからで、また『テレプシコーラ』の中で主人公の一人千花(チカ)がけがをする場面を、六花(ユキ)がとにかく何とかその舞台をこなした場面を思い出して、なんだかうるっとくるものがあった。チャイコフスキーで感動する、というのはただその作品のアーティスティックな、技術的な、品の有無という点で感心し感動するということよりも、もっとエモーショナルな、つっかえつっかえ躓きながら歩いて行く人生というものに対する共感と感動、みたいなものがあるのかもしれないし、「金平糖の踊り」に込められたある種の祈り、祈りと呪いのどちらか自分でもわからないような情念、と言ったものに対する感動であるように思った。

<画像>吉岡徳仁 クリスタライズ
青幻舎

その時ふと先日行った「クリスタライズ展」で『白鳥の湖』の曲を流しながら結晶させると曲想によって結晶の仕方が変わってくる、という展示があったことを思い出した。

「白鳥の湖」の曲は、あのバレエの場面に非常にふさわしく、というかあの曲がなければあのバレエは成立しないが、そぎ落とされた白鳥の衣裳が薄暗い青い照明の中で映えている。あの音楽が、その世界を成立させている。

あの世界はとても幻想的なのだけど、あの幻想性はもちろんヨーロッパ的な幻想性でもあるけれども、その根にあるのはむしろロシア的な幻想性なのだと思った。ヨーロッパのバレエは基本的にもっと近代的で、もっと明るい。あの作品がボリショイの十八番だというのは理由のないことではない。

それはロシアの、ヨーロッパに比べれば「遅れている」からこその、生き残った幻想性なのだと思った。シェークスピアまでさかのぼればイギリスの舞台芸術も十分に幻想性を残しているけれども、骨の髄まで近代精神を叩きこまれた欧米の役者には「テンペスト」などの幻想的な舞台を演じる力、というか素質がない、だから日本やアフリカなどの非西欧世界の役者を使う、と「テンペスト」を舞台化した演出家が行っていたけれども、「白鳥の湖」というドイツを舞台にした幻想的なストーリーを舞台化できたのはロシアのいい意味での後進性、つまり霊的・魔的なものを感じる感性がまだ社会的に生き残っていたということが大きいのではないかと思った。


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