12.時間に追われているというより時間をかき集めている/『くるみ割り人形』を聞いてチャイコフスキーが描きだすロシアの幻想性について考えた(12/27 15:36)


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【『くるみ割り人形』を聞いてチャイコフスキーが描きだすロシアの幻想性について考えた】

昨日の夜から雪が降っていた。雪と雨の中間よりやや雪よりという感じの雪で、夜から今朝も零下に下がらずあたたかかったから舗装された道にはほとんど雪は残っていない。家の前は日が当らないので少し残っていた雪を簡単に片付ける程度の雪かきはしたが、場所によっては箒で掃けば済む程度だった。

昨夜は冬用のあたたかいパジャマで寝たら、暖房が暑くて布団をはだけそうになったので、暖房を全部消して寝た。気温が高かったこともあるが、パジャマが暖かかったことは大きいなと思う。そろそろ本格的な真冬の準備というところだなと思う。

7時前に車で家を出たがまだ暗くて、ライトをつけて走った。気温が高いからカーブミラーが曇っていなくて助かる。職場のごみを出して、お城の近くのサークルKに車を走らせ、週刊漫画タイムズを買う。別冊漫画ゴラクを探したがやはりない。どこで売っているのだろう。

<画像>チャイコフスキー:バレエ「くるみ割り人形」全曲
アシュケナージ指揮・ロイヤルフィルハーモニー
ユニバーサル ミュージック クラシック

帰って来る途中でFMをつけたら『くるみ割り人形』の「金平糖の踊り」が流れてきた。この曲は曲として聞くというより、バレエの伴奏として耳にする感じなのだけど、こうやってステレオで聞いていると、なんだか懐かしい気持ちになってきた。

モーツァルトに比べて、ベートーベンやチャイコフスキーはある意味ダサい。でもベートーベンはその精神性のどこまで行くんだという凄さみたいなものがあって、やはりベートーベンはベートーベンだなと思うのだけど、チャイコフスキーは敢えて音楽として聴こうという気があまりしないところがある。吉田秀和がプーシキンに始まったロシア文学に対して、音楽がチャイコフスキーで始まったことは何かロシアの音楽が残念なものになる原因になっている、というようなことを書いていて、私自身もそう思っていたのでわが意を得たりという感じだった。

それはつまり、文学にしろ音楽にしろロシアはヨーロッパに遅れて発達した国なわけで、その点は日本と共通したところがあるのは、いわゆる「後進帝国主義国」という歴史学上の概念からも言えるのだけど、日本がヨーロッパとは違う文化伝統を持ち、ヨーロッパの文物が取り入れられてもやはりどんなものにも日本らしさというものが現れてしまうのと同様、ロシアにもそういうところはある。

文学において、プーシキンというのはモーツァルトと同じような天才であって、同じように夭逝している。モーツァルトは病気だがプーシキンは決闘で死ぬというある意味華々しい死に方をしていて、世界的に見ればロシア文学と言えばまずトルストイ・ドストエフスキーなわけだけど、ロシア人自身はプーシキンこそが国民詩人・国民作家とみなしている。スターリンもプーシキンを好んでいるということをことあるごとにアピールしてインテリであり心が豊かであるということを国民に示していたりしたけれども、プーシキンはそういう意味で幸福なロシア文学の一つの象徴=アイコンになっている。

日本でもそうだけど、ロシアでも常にピョートル大帝以来の西欧的近代化を目指すヨーロッパ主義者と、伝統的なロシアに拘泥するロシア主義のようなものが対立して来ていて、プーシキンはヨーロッパ主義者でありながらロシア主義者の心の襞にも入っていけるようなやわらかで繊細な調べを生みだした。そういう意味でプーシキンはロシアの統合の象徴ともなった。

それに比べるとチャイコフスキーの位置づけは曖昧だ。プーシキンは軽やかではあるが軽薄ではない。チャイコフスキーの私のイメージは、その反対だった。


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