5031.人が気高く、誇り高くあろうとすること(07/03 22:25)


金曜日の午前中に書いて以来、ちょっと間が開いた感じ。少し集中して過ごした時間が長いせいで、土曜日と日曜日の前半はとにかくぼけっとして過ごした。その間に、『魔術師のおい』と『さいごの戦い』を読みきる。ナルニアの誕生と、その崩壊。辛辣というより、諦念と抱擁とでもいうか、『あさびらき丸』や『銀のいす』に見られた苦さがむしろ違う形になっているような感じがする。

『魔術師のおい』はチャーンというナルニアとは別の世界の崩壊と、ナルニアの誕生についての物語なのだが、最初の「世界の滅び」の描写はかなり強烈である。ある意味、『不思議の国のアリス』に似た部分がある。ヴィクトリア時代末期という舞台設定がそうさせたのか。しかし、ナルニアの誕生の場面は、私はすっかり忘れていたが、とても感動的なものだった。私たちの世界ではキリスト教では神が「光あれ」といったり、あるいは「最初に言葉があった」ということから見ても、まず「神のことば」が世界を生み出した、ということになるわけだが、ナルニアはライオンの歌声が光を生み出し、太陽を生み、つきを生み、世界を生む。歌声が生み出した世界、という発想がとても素敵だと思った。私たちの、ことばが生み出した世界は、どんなものか。

『さいごの戦い』は始めて読んだときの衝撃が今でも残っているが、もちろんもう知っているのでそれと同じ衝撃はない。しかし、そのとき思わなかったもろもろのことばが心に残るのが不思議だ。不運にもナルニア最後の王となったチリアン王が「子どもたちよ!こどもたちよ!ナルニアの友よ!」と助けを呼ぶ場面が心を締め付け、英語の原作でどう書いてあるのか確かめたいと思って本を開けたら最初に"Children! Children! Friends of Narnia!"ということばが目に入ってきたときは思わずどきんとしてしまった。一枚もページをめくらず、ジャストにその場面を見てしまうという経験はそうはない。そこが何度もみたことがあるなら折れ目がついているかもしれないが、実は英語版の"The Last Battle"をめくったのは今回が初めてなのだ。何か自分にとって運命的なつながりのある本というのは、そういうところがあるのではないかと思った。

信仰、祈り、心の正しさ、勇気。良いものを愛する気持ち。食べ物も、飲み物も、素晴らしい細工も。子どものころの私は、というか今でもそういう傾向はあるが、精神的な美しさ、あるいは外見的な美しさはともかく、食欲や物欲に関係する食べ物や持ち物については関心が薄かった。だからとてもおいしそうな描写がそれなりに出てくることに、私はあまり関心がなかったのだが、今読み直してみるとそういう部分が実はかなりあることに気がつく。人間としてもともと持っていた部分と、大人になって身につけた部分の違いという感じだが、美しさを見る目がより広がったということは良いことだと思う。

この物語は本当に私の世界認識のパターンを作った物語だと思う。どんなに現実を見る目に斜に構える部分があっても、やはり美しいもの、気高いものを探そうとする気持ちがある。そして自分の利益であるとか、他人の利益であるとかいうことに、どうも無頓着になってしまう。その人が成長する、大人であれば成熟するということに資するかどうかということは考えるが、どのくらいの利益につながるかといったことには本質的に関心がないのでもちろんその操作もうまくない。それはそれで問題であることは確かなのだが。

それにしても、無原則に現実との妥協に流れがちだった自分の魂を、このシリーズを読み直すことで少しは引き締められたような気がする。正しいもの、美しいものは確かに存在するのだ、という自信のようなものが取り戻せたように思う。というより、初めてその自信に似たものを獲得できたというべきかも知れない。

日本人、少なくとも戦後の日本人は、正義という感覚についてあまりにも鈍感でありすぎたように思う。日本人にもともと正義という感覚がどのくらい強くあったのか、私には分からないけれども、もう少し自覚を持って日本人はその感覚を持つべきだと思う。

物語の世界、寓話の世界でしか、純粋な正義や純粋な美は存在しないのかもしれない。自ら気高く、誇り高くあろうとする人間の希な社会では、本当の意味での正義は存在するべくもないのかもしれないとも思う。

しかし出来れば日本が、そういう社会になってもらえれば、という思いは、ある。

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