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司馬遼太郎『酔って候』

酔って候<新装版>

文藝春秋

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月曜日に東京で古本屋を回っていた時に、文庫本の安売りをしていた中に『酔って候』があった。山内容堂の一代記であることは知っていたが、読んだことはなかった。容堂の伝記本は一度読んだことがあったが、あまり感銘を受けなかった。この尋常でない大名の魅力を描き出すには、歴史学の筆致では不足するところが大きすぎるのであろう。

今回司馬の筆による山内容堂を読んで、実にその魅力と弱点をうまく描き出していると思った。詩人肌の志士、あるいは詩人の志士というのは頼山陽にはじまり高杉晋作、梁川星巌その他ずらりと揃っているが、容堂もその系列に列する人物だろう。こうした特有の美学を持った人物の生き様というのはそれに共感する部分とその魅力を客観的に描き出すことのできる筆がなければうまく伝わってこない。司馬遼太郎の筆にはそういうものがあり、土方歳三を書いた『燃えよ剣』を読んだ時に実に感銘を受けた。

司馬の表現で特徴的だと思う言葉の一つは「すき」ということばである。

大仏の門前から「千載」を打たせて都大路を北上しはじめたが、酔って尻が鞍におちつかない。こまった、とおもった。/「唯八、俺は酔っているか」/と、馬上から小笠原唯八に声をかけた。/(酔っているどころではない)/と唯八は思った。ぐらぐらと体がゆれている。差料は、二字国俊で蝋塗りの刻み鞘、鉄の丸鍔に銀の覆輪、黒柄に金目貫がきらりとかがやき、脇差は川井正宗で、こしらえは金無垢に転び獅子を彫りつけた鐺(こじり)、鍔は金家作で垣に郭公の彫り、柄は黒。/どう見ても豪華である。唯八は、この殿の酔態がすきであった。えもいえぬ気品があり、どうみても二十四万石の酔態というべきものであった。

「この殿の酔態がすき」なのは唯八ではなく、司馬自身なのだろう。この使い方を誤ると文章自体が甘くなる言葉をうまく使って、というより文章は間違いなくここで甘くなってはいるが、それをうまく使って現代的価値観とその当時の、あるいは容堂自身の美学とそれに対する司馬の共感をうまく表現している。そこが技であるとともにある種の反則かもしれないという気もしないではない。しかしその危ないバランスの上にたっているのが、司馬遼太郎という人の作品でありその求めるものであったといえるのではないかともおもう。

いわゆる司馬史観という言葉があるが、司馬の歴史の見方は史観というよりは一種の詩的な美学に近いものだと感じるところがないでもない。それは世の中にとって必要なものの一つであるとは思うけれども、それですべてを表現し尽くせるわけではないだろう。司馬の表現は、主に経済・社会学系統の分析が優勢となった歴史学そのものに対する、アンチテーゼ性を強く感じるところがある。アンチテーゼだけですべてを描き出すことはできない。しかしアンチテーゼは一つの美学ではありえる。

そんなことを考えたりした。(2003.1.31.)

  

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