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司馬遼太郎『世に棲む日日』

世に棲む日日 (1)

文芸春秋

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一昼夜で司馬遼太郎『世に棲む日日』(文春文庫)全4巻を読みきったらさすがにちょっと気持ち悪くなった。

吉田松陰と高杉晋作を主人公にして、明治維新という詩を書いた二人、という観点で司馬はこの本を書いたように思われる。読んでいると自分自身の詩的な側面がずいぶん刺激されているのに気づく。司馬氏は通俗歴史小説の巨匠のように思われているが、実際は大人になってからも友人たちが昆虫に見えて仕方がないときがあった、と言うくらい幻想力の強い人なので、この幻想力の彼方に描き出された若者二人の姿(二人とも30歳を迎える前に死んでいる)は奇妙に生き生きとしている。

歴史と言うものはもともと詩としての側面が強く、それはオデュッセイアにしろ平家物語にしろ英雄時代を描くものはそういうものだったわけだが、社記が安定し散文的な時代になると散文的な記述に、数理が優先する社会になると数理によって解き明かそうとする歴史が主流になる。フランス革命史にしても、たとえばミシュレーの『フランス革命史』などは詩のようなものだった。実際のところ、散文的な歴史が詩的な歴史に比べて絶対に優っているというのは一種の偏見だろう。

詩が明らかにするものと、散文が明らかにするものは、性質が違うと考えるべきだと思う。そして散文が明らかにするものが歴史のすべてだと考えることは間違っている。

結局自分は詩的体質が強いからそういうふうに思うのだろうなとは思うが。たとえば、人は集団発狂状態になることがある、と散文的にいうのと、人は大義のために死ぬことがある、と詩的にいうのと、同じことをいっているかもしれないが、理解のされ方は異なるだろう。そしてどちらのことばがより真実に迫りうると考えるかは、おそらくは受け取る方次第なのだと思う。

どちらにしても、現代の日本は他に例を見ないくらい詩的な歴史と言うものが軽視されている社会だと思う。逆に言えば、現代の日本人には、アメリカの政治家が詩的な表現に込めた意味や、むかしの日本人が詩的な表現にこめた思いなどを理解できなくなっているのだと思う。日本人が損得しか考えない低級な国民だと軽侮されているのもそうしたことと無関係ではないように思われる。

人間というものは、非合理な「思い」にのみ生きようとするには合理的過ぎるが、合理的にのみ生きようとするには限りなく非合理な存在なのだろう。(2002.6.5.)

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