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コンラッド『闇の奥』

闇の奥

岩波書店

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コンラッド『闇の奥』は少し読み始めたが、面白そうだ。1899年の作だから典型的な帝国主義時代ともいえるし、ビクトリア朝最末期ともいえる。最初の船乗り心理の描写とかがなるほどなあと思わせる。外国駐在の企業の社員はまたもう少し地元に関わるだろうし、植民地統治の役人たちはまたその関わり方が深くなろうが、彼らの論理が地元の論理と関わることは基本的には無いのだ。これはピースボートで世界一周した車谷長吉の旅行記を読んでいても思ったことだが、見聞は広まっても個人に内在する論理が変化するわけではないんだよなと思う。ノマド論とかディアスポラ論とか定住者と新来者との関係は何につけても一筋縄ではいかないが、少なくとも帝国主義だけを軸に見ていたのでは見えないことが多いよなと思う。(6.5.)

特急の中では主に『自壊する帝国』を読むつもりだったのだが、読みかけだったコンラッド『闇の奥』にみごとにはまってしまい、一気に読了した。これはすごい面白い作品だった。"Heart of Darkness"という題からおどろおどろしいものを想像し、読めるかどうか不安だったが、そのおどろおどろしい部分はほとんど気にならなかった。

いろいろな理由は考えられるが、一つは中野好夫の訳だったこと。スコット『アイヴァンホー』でかなり長いものを中野訳で読み、中野訳の呼吸のようなものに慣れていた、ということはある気がする。もう一つはコンラッドがフローベールを尊敬していると解説にも書いてあったが、その描写が変に気取らず、かといって無味乾燥でもなく、実に読みやすい(引っかかりがないとか、癖がないという意味で)描写であったということだと思う。まあ今読みかけで止まっている『ボヴァリー夫人』や『感情教育』の延々たる叙述に比べれば、いかに長々としたアフリカ奥地の描写であっても絶対的な量が短いので、ほとんど苦にならなかった。三つ目は、基本的にこういう「ロードムービー」的な描写が好きで、慣れているということ。80年代、芝居をやっているころに「ストーリーの独裁」みたいなものでない作品に演劇でも映画でも多数触れていて、抵抗がなかったことも大きいかもしれない。だんだん「闇の奥」に入っていくという感覚が、実に皮膚感覚的に感じられて、面白かった。「残酷な描写」みたいなものでも、「アンダルシアの犬」であるとか「フリークス」であるとか実験的な時代の映画芸術をそれなりに見ていればまあそんなものか、と思うのではないかという気がする。自分がよく見た監督で言えばアンジェイ・ズラウスキ『狂気の愛』などだが、そういえば彼もコンラッドと同じポーランドの出身だ。

まあ以上は個人的な理由なのだが、つまりはそういう意味での「訓練」を経れば、まあそんなにどうということもない高さの敷居といえるのではないかという気がする。好みに合わない人は全然駄目だろうけど。

ストーリーは作者が仮託されていると思われるマーロウがコンゴ川奥地と思われる場所に象牙商人であり高邁な理想家であるクルツに会いに行く、という話なのだが、コンゴ川流域といえば今でもなんだかこの世で起こっているとは思えないようなニュースが時々入ってくる地域で、同じような熱帯雨林の奥地でもアマゾン流域などとは相当感触が違う。スーダンのダルフールでもそうだが、やはりアフリカは日本人にとってもまだまだわからないことだらけの「闇の奥」である部分が多いなと思う。そこを分ったふりをして政治的正しさとかの主張をすると、結構大変な破滅を招く場所である気がする。

(女性割礼の禁止運動とか結構盛んだが、どうもなんか私などには違和感がある。わけのわからないことが多すぎる中で、一つだけの風習にこだわるのはまあたとえば食人習慣の根絶とかそういうことの延長線上にある運動なんだろうけど、そういう近代主義の押し付けが何かとんでもないことを招くのではないかという怖れが私などには感じられてならないのだ。)

まあそういうアフリカ奥地で実質的主人公であるクルツのやっていることは、アフリカの「闇」を征服しようとして憑かれたように象牙を狩り続け、「闇を苦しめ」、そして自分自身がその闇によってどんどん支配されていく、というように見える。その姿は、「世界」を征服しようとした帝国イギリス(あるいはフランス)そのものではないか、という気がする。この場合の「闇」は、コンラッドは文字通りの非啓蒙の闇ととらえているが、「異文化・異文明」とやや相対主義的にとらえた方が一般性があるような気がする。少なくとも近代社会の常識とは違うという意味でもあるが、「闇」を抱え込んだということばが啓蒙絶対主義的に使われると現代における植民地出身者を多く抱え込んでいる先進諸国の現況を見る上ではそれこそ政治的正しさの面から問題がありすぎる。近代絶対主義的な視点を外せば、コンラッドの「闇」はもっと素直にとらえられると思う。

いやいや政治的正しさにこだわっているといろいろ大変だが、まあ日本もまた、「闇(異文明)=中国」を征服しようとして水から巨大な闇を背負い込んでいったのではないか。抱え込んだ方の闇というものは異文明そのものではなく、ある種の実存的な危機だといった方がよいのかもしれないが。帝国主義諸国は闇を征服することによって闇に征服されたのだ、という気がする。

まあそういう視点から言うと、私などは「自分の領分」を守ることの大切さを感じる、という非常に穏健な意見に到達するわけだが、まあヨーロッパ諸国間の政治ほど成熟していない国際関係ではなかなかそうも行かないことももちろん理解できる。同様にアメリカの闇はベトナム・イラクであり、ロシアの闇はアフガニスタンだということになる。

しかし、そういう政治的なことだけが問題なのではなく、この小説では「完全知」という空恐ろしいものが問題になっている。クルツは完全知に魅せられ、おそらくはそれに駆り立てられて「闇」を知ろうとし、「闇」に飲み込まれて行った、のだと思う。これは、ある本質を究めようという人たちのみに開かれる恐ろしい扉であるようで、もちろん私などにその恐ろしさの本質がわかるわけはないのだが、そこに行き着こうとした人たちの感じた恐ろしい苦悩・絶望というものはいろいろな形で出会っていると思う。私などはそういうものを感じるとこれ以上進むのは危険だ、と本能的に考えてしまう良く言えば穏健さを持っているのだけど、それから逃げないで対峙している人たちもいる。私が思い出したのは「肥田式強健術」(だったかな)の肥田惟光(名前は不正確)とか、野口整体の野口晴哉、あるいは現存の人ではその子息の野口裕之、武術家の甲野善紀、と言った人たちなのだが、人間存在(今上げた人たちにおいては身体という意味になるが)の中のどうしようもない「闇」を知っていて、しかしその中で本質を究めようとしている人たちである。

ラストシーン、というかクルツが「俺はこの真っ暗闇の中でじっと死を待っているのだ」とか今わの際に「地獄だ!地獄だ!」と叫ぶ場面は、マーラーの9番の第4楽章のラストを思い出した。破滅と救済はよく似ている。祈りと絶望も。クルツというのは逆説的なシュヴァイツァーのような気がするし、シュヴァイツァーという人物も、相当巨大な闇を抱え込んだ人間なのではないかと昔から思っていたが、『闇の奥』を読むとシュヴァイツァーのこともより理解できる気がする。(そういえばシュヴァイツァーはコンラッドを読んでいたのではなかったかな。記憶が定かではないが。)

読み終えるとダンテの『神曲』の「地獄篇」を読むのに似た、不思議な安らぎが訪れた。隣の席では女の子がしきりに笑いかけているのだが、こんなものを読み終えた後で笑顔を作ったせいか、女の子が固まってしまった。可哀相なことをした。

私にとっては面白かったが、誰にとっても面白いとは限らない本だと思う。しかしすごい作品であることだけは断言する。(6.7.)

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