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玄侑宗久『中陰の花』

中陰の花
玄侑 宗久
文藝春秋

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玄侑宗久『中陰の花』読了。読む前はこの著者に若干偏見があったのだが、この小説はとてもいい作品だった。

禅宗の僧侶である主人公と、「おがみや」の老婆、新興宗教に目覚めたらしい石屋のおじさん、そして流産した子どものことを思いつづけている主人公の妻。「成仏」とはどういうことか、をめぐってさまざまに、しかし穏かに話が展開する。

仏教の教理や実際の供養のこと、あるいはお経の内容など、知らなかったことがいろいろかかれていて、そういう面でも勉強になった。「中陰」とは、死んだ魂(という言い方はしていない、たとえ話で上手くその表現は避けている)がまだそのあたりに彷徨っている状態、あのよとこの世の中間、ということなのだそうだ。しかしその魂は天国とか地獄に行くわけではなく、水蒸気のようにだんだん拡散していく。その拡散していく状態が「空」なのだという。そしてあらゆるところに遍く存在する、ということになる。だから大きさはどんどん小さくなっていくわけで、「微塵」という単位から「極微」という単位、素粒子並みの大きさになるのだという。というと疑似科学的だが、まあインド的な途方もない単位の数字が極小の方に向かって推論されてそれがたまたま素粒子的な大きさに相当する、ということなのだろう。

あまり考えたことはなかったが、確かにそのように考えてみると仏教の考え方というのは基本的にプラクティカルな部分が非常に大きいのだなと思う。魂の問題をそのように考える視点があるから、逆に怪しげな新興宗教の跋扈に対し立ち所がきちんとあるということになるのだろう。

しかしこの話の僧侶はおがみやや石屋にある意味気圧されている部分もある。妻も、子どもを失ったときおがみやに話に行き、「大丈夫」といわれる。おがみやの予言は必ず当たるのだけど、その言葉予言というよりは「祈り」だった、というところで、危ういところでこの小説が近代的な意味での文学になる。主人公の姿勢は超自然的なことについても常に、そうかもしれないし、そうでないかもしれない、という立場を取りつづける。それは逃げではなくて実相を見るための方法なのだということが、読んでいるうちに納得されていく。

魂とか成仏とか、そういう目に見えない現象の問題をめぐって、そういう問題の「プロ」である僧侶と、おがみやや石屋の土俗的な信仰、あるいは信念とがぶつかることなく出会い、ともに描き出されていく様は、「そうかもしれないし、そうでないかもしれない」という不動の姿勢がなければ出来ないことなのだろうと思うし、それが中途半端、あるいは怪しげな方に流れているんじゃないかと言う邪推が私にはあったのだけど、そのスタンスも含めて彼自身が修行中なのだ、ということなのだろうと思った。

不思議な静寂感がある。それは多分、臨済宗の僧侶の日常生活が淡々と描写されているからだろう。僧侶の生活そのものが静寂感が伴っているからなのだと思う。そのあたりのところ、正直言ってつい覗き見趣味的に読んでしまったが、選評を読んでいると、改めてその描写力を再認識させられた。テーマがテーマだけに私などはついテーマそのもののほうに関心が集中してしまうが、描写の確かさゆえにそのテーマが浮ついたものになっていないということは確かにあり、そういう意味で、こういういろいろな意味で近代文明にとって危ういテーマであればあるほど、小説的な方法が有効となるといえるのかもしれないと思った。(2007.7.25.)

玄侑宗久「朝顔の音」(『中陰の花』所収)読了。これも重い。

この小説には『中陰の花』の拝み屋と同様、「霊おろし」の女性が出てくる。描写からするとイタコのようなものらしい。育たなかった子ども、報われそうにない愛。そうしたものに望みを持つべきでない、と主人公の女性が思ったときに、恋人から貰った平安時代の朝顔が音を立てていた。それを聞いて主人公は朝顔を引きちぎってしまう。「諦め」の重さと悲しさ。

この小説は、扱っている主題の重さに比べて少し短すぎるのではないかという気がする。なんかもうちょっと書いてほしいな、という感じ。主人公が放り出されて泣いている感じがした。(7.27.)

  

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