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石原慎太郎『わが人生の時の時』
わが人生の時の時新潮社このアイテムの詳細を見る 昨日帰郷。特急の中で、石原慎太郎『わが人生の時の時』、白洲正子『両性具有の美』をぱらぱらと読む。そう、特急に乗る前に東京駅の栄松堂で江国香織『都の子』(集英社文庫)を買ったのだった。これはその前に読んでいた福田和也『悪の読書術』で江国が称賛されていたのでそれを読んでみようと思って買ったのだが、やはりなんと言うかこの神経の張り詰め方がこちらの警戒心をそそる。自分にとってはいつでも読みやすい本とはいえないようだ。まあ「読みやすい」本ばかり読んでいたら精神が弛んでしまうが。
「わが人生の時の時」は、おもしろい。幽霊の話があったり、ひとだまの話があったり、洋上ですんでのところで落雷で死にかけた話があったり、まさに行動的で、それゆえに遭遇した生と死のあわいというか、そういうものを肉体的な裏づけのあることばで語る力は、確かに他の追随を許さないものがあると思う。行動的といっても、そういうものに遭遇するのはヨットで遊んだり、スキューバダイビングをしたり、ポーカーで遊び疲れた友達を送りに行った帰りだったり、要するに全部「遊び」の場面で起こったことばかりなのだ、今まで読んだ範囲では。しかし考えてみたら、偶然性の高いこうした話は仕事の日常の中より無軌道な遊びの非日常の中で感じられることが多いのだろう。そういう意味では思い切り遊んでいる人の奥の深さというものを飾りなく表現していて、やはりこういう作家はほかにいないのではないかという気がした。格好をつけているのでなく、自然体でかっこいい、特に小説は。政治家としての石原はやはりどこかに無理があるというか、つくっている部分があるが、作家としての石原はそうではない。教えられるところが多い。政治家としての石原に教えられるところがどのくらいあるのかはちょっと難しいところがあるが。
自分の格好のつけ方を考えてみると、やはりかっこうつけているという作為があり、それを自分でも意識しているし、意識しないといけないと思っているところがある。しかしそういうのは格好付け検定3級くらいで、やはり有段者になると自分の欲することをやれば格好いいということでなければいけないのだろう。少なくともそれを目指したいものである。
しかしそれにしても、作家の面白さも遊びの面白さも格好つけるということもだいたいは学生時代に一度は経験していることなのだよなあと改めて思い出す。あのころは確かに恐いものなどなく、でたらめに生きていた気がする、少なくとも今よりは。大人として社会的責任を持つ、パブリックな生き方をするということと、でたらめに生きる、プライヴェートで枠のない生き方をするということはどのくらい両立可能なのかわからないが、石原慎太郎がやっていることはたぶんそういうことなのだろう。
なんだかんだ言ってもプライヴェートに面白みのある人間は魅力的だ。パブリックに面白い仕事をやっている人間ももちろん魅力的だが、この二つの魅力が同じものなのか違うものなのか、今のところは違うものだと思うけれども。(3.10.)
昨日から特にこれということはないが、仕事以外の時には原稿を進め、ふと空いた時間で『わが人生の時の時』を読み進める。海のスポーツが好きな人には絶対お勧めの本だが、それ以外の人には魅力は説明しにくいかもしれないなあ。しかしこの本はいい。(3.11.)
日は仕事は比較的暇だったのでそういう疲れはあまりないのだが、いろいろ驚くようなことがあったので神経が妙に興奮して寝付けなかったりした。しかし寝床に入ったのが比較的早かったので目が覚めるのも早かった。このところ寝ている間はストーブを消していても大丈夫なのだが起きると寒い。寝床で点火用のライターをごそごそやってストーブをつける。そのまま枕もとにあった『わが人生の時の時』を手にとって、何の気なしに読み始めるとついはまって短編をいくつか読んでしまった。おかげで起きるのが遅くなって朝の予定が狂った。心の芯に妙な興奮状態が残っていてなんだかつい変なことをしてしまい、そのミスを元に戻すのにまた時間を食ったりと、こういうときはどうも落ち着かなくて困る。
しかし、若いころというのは毎日こんなものだったよなあと思い出す。いつもなんだか新鮮な驚きばかりで、つい浮かれてそういうものばかり追いかけていた。何か自分のためになることをもっとやればよかったのだが、永遠にそんなときが続きそうな気がして毎日を送っていた。80年代前半のポストモダンの思潮もそういうものに輪をかけていたのかもしれない。こういう状態にならないとそういうころのことは思い出さないのだなあと思う。人間の一生の中で経験できること、感じられることは限られていると思うのだけど、その限られたことについてさえすべてを覚えていられないということは、人間にとって幸福なのか、残念なことなのか。すべてを覚えていたら気が狂うとよく言うが、ものを書いているときは経験したはずの感覚がうまく思い出せなくてもどかしいときある。人は記憶の海のほんの一部しかおぼえていられないのだなあと思う。
『わが人生の時の時』を読んで、石原慎太郎という人は肉体派だというイメージが強いし、実際にそういう経験をよく積んでいる人なのだが、その本質は観念的というか頭脳的というか頭が中心の人なのだなと思う。それもかなり強烈にそうなのだが、彼はそれだけに偏らないために肉体的なことに打ち込んでいたのだろうなと思う。太平洋を横断するヨットの中でさえ本を読むというのはいったい何をしに行っているのだろうと思うが、そういうことをしながらバランスをとっているということなのだろう。やることはとても真似できないようなことが多いが、心の動きはとてもよく伝わってきて面白い。
一つああなるほど、いい考えだなあ、と思ったのは彼の親友・ベニグノ・アキノが暗殺されたときのエピソードで、石原夫人が亡命先のボストンからフィリピンに帰国しようとするアキノの行程を聞いて、方角と時期が悪い、といったのだそうだ。それで石原も心配になってアキノに言ったのだが、迷信だと取り合わなかったという。結果はよく知られているとおりだが、そのとき彼は死ぬならフィリピンの土の上で死ぬ、といったそうだ。それ自体政治家としてのアキノの心情がわかる感動的なエピソードなのだが、石原自身、そうした方角や姓名判断などについて信じるかというと、「なまじのインテリだけに中途半端」なのだが、「相当の敬意を払うことにしている」ということをいっていて、ああなるほどいい言い方だなあと思ったのだった。ガチガチの科学信者のように頭から否定するのでもなく、もちろんそれを無条件に受け入れることもないが、しかしそれはそれとして尊重する、そういうフレキシブルな考えは精神に余裕がないとできない。しかしそういう態度を取ろうとするのは素敵なことだと思う。
有名な姓名判断の人に戦争中の経験談も面白い。よい名前の人は生き残るがよくない名前の人は戦死してしまったので、よくない名前の人は改名させたという。その話しをきいて石原が納得し、子どもの名前をその先生につけてもらったら、「どれもなぜか堅苦しい坊主みたいな名前ばかり」だったというのには笑った。そういえばそうかも知れぬ。
なんかアンテナが洪水のようにいろんなものを受信する。面白いが面倒だし、たぶん処理しきれない。面倒なことだ、仕事も終ってないのに。(3.12.)
石原慎太郎『わが人生の時の時』。帰京の特急の中でもずっと読みつづけたが、まだ読み終わっていない。これだけ充実した読書は久しぶりだと思う。というか、共感を感じながら小説を読んだのは大人になってから初めてかもしれない。子どのものころ、物語的なものに熱中したのはその物語に出て来る少年たちへの共感からだったのだということにいまさらながら気がつく。中学生のころ、世界の名作、のようなものを読もうとしてどうにも面白くなく、文学への関心を失ったが、人と文学の関係というのはそんなものかもしれないと思う。山田詠美や吉本ばななを読んでも興味は引かれるが共感する、というのとは違う。荒俣宏や村上龍を読んで興味を引かれてもやはり共感はできない。太宰治や三島由紀夫は少し共感しそうな部分があったが自分が変なところに連れて行かれる恐怖感に襲われてそれ以上読めなくなるところがあった。まあ私というのは変な人間だからそういう共感のようなものはなかなか得られないのだろうなあと思い、塩野七生や白洲正子など自分が興味を惹かれるものを主に読んでいたが、それは本来の小説の読み方ではないのだなあと改めて思った。共感できる小説を書く作家をもっと探してみることは、自分の人生にとっても意味のあることだなあと思った。石原慎太郎がそういう作家であるというのは私にとってかなり意外なことであったのだが。
小笠原の南島がこの世と思えない、別の惑星のような美しさを持っているということを石原は書いているが、こちらの写真などを見るとなるほどすごいなあと思う。彼が都知事になったあと、一部の人しかいけなかったこの地域で、エコツーリズムが実施されているのだそうだ。なるほど遊ぶことと書くことと仕事がこの人の場合はひとつの結果を出している。毀誉褒貶はあるが、こうしたところは素直に評価すべきだと思った。(3.13.)