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頭山統一『筑前玄洋社』

筑前玄洋社

葦書房

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考え込んでいて更新が遅くなる。きのうから頭山統一『筑前玄洋社』(葦書房)を読み始める。玄洋社の前史である福岡の尊王攘夷運動の苛烈な歴史についてはじめて知る。

幕末の藩主黒田長溥が薩摩の蘭癖大名・島津重豪の息子で、ために藩内では蘭学が盛んであり、勝海舟の蘭学の師、永井青涯も黒田藩であったこととか、薩摩でお由羅騒動があったとき、斉彬派が黒田藩領に逃げ込んで実態が知られたとか、そういうことは知っていた。

が、尊攘派と佐幕派の激しい対立の結果、水戸藩天狗党の武田耕雲斎の処刑から程なく尊攘派が大量処刑される乙丑の獄があったこと、また維新後も偽の太政官札の発行により廃藩置県以前に藩が取り潰され、新政府からも厳しい措置を取られた(いんちきな貨幣の発行を行っていた藩は他にもいくつもあったがいわばスケープゴートにされた、と頭山は書く)ことなど、重大な困難に見舞われたことははじめて知った。

また玄洋社の設立に関しても野村望東尼と高場乱という二人の女性が大きな役割を果たしていることもはじめて知った。望東尼については高杉晋作との関係は知っていたが、黒田藩における尊王家としての役割は知らなかった。

また明治8年の愛国社(自由党の前身のひとつ)の結成大会に、頭山満が所属していた矯志社の指導者・武部小四郎(彼自身は西南戦争に呼応した福岡の変で処刑される)や大久保利通を暗殺した石川県の島田一郎らも参加しているということもはじめて知った。

そういう意味でいうと、玄洋社というのは右翼とか大アジア主義という言われ方が普通だけれども、自由民権ともかなりのかかわりをもっていることがわかる。今までそういう指摘は読んだことがなかった。石瀧豊美『玄洋社発掘 もう一つの自由民権』(西日本新聞社)という本も今日神田で見かけたけれども、昭和期の右翼思想が天皇主義以外の部分がほとんど左翼思想の引き写しであることなども思い浮かべると、明治がスタートした当初から右翼・民族主義の思想と左翼・進歩主義の思想は双生児のような関係にあったのだなあと思う。

このあたりの思想史・運動史も少し読んでみたい気がする。戦時中の社会主義者と国家社会主義者の関係もあったし、いま現在はよく知らないけれども、少し前は極右と極左の接近、なんて話も聞いた覚えがあるし、図式的な左右対立ではない思想史の全体像をつかめたら、という気はする。

いや、まだ読み始めたばかりの感想なのだけど。(2001.5.26.)

『筑前玄洋社』読書メモ。頭山満が土佐の板垣退助のもとに滞在し、明治11年の大阪における愛国社再興大会に参加していたことを知る。板垣の戊辰戦争での参謀としての活躍から、土佐派はむしろ西郷なきあとの一大軍事勢力として反政府派に期待されていた、というのは重要な指摘であると思う。(2001.5.27.)

『筑前玄洋社』を読みつづけているが、教科書的な明治時代史とは違った迫力があって非常に面白い。自由党にしろ、玄洋社にしろ、明治維新を一つの革命だとすると、「革命いまだならず」という信念のもと「第2革命」を目指して明治を突っ走っていく。その一つの動きが1945年まで続いていったのだとすると、日本の近代史はまさに永久革命の時代だったという感じがする。

今思うと、その革命が完全に終息したのが1970年前後の挫折の時代だったのだろう。あの時代の前の時代を知っているか、知らないかで人間は二つに分かれてしまうような感じがする。

タレイランではないが、「革命前の時代を知らないものに、人生の本当の楽しみなど分からない」のかもしれない。良いか悪いかは別として、社会全体が直面する「悲劇」というものは日本から消えていった。残されたのは日常のちっぽけなストレスばかりである。悲劇のないところに崇高さは生まれないから、人間が本質的に持っているのではないかと思う崇高さを求める本能が飢餓状態にあるのではないかという気がする。

もしそうだとしたら、問題は崇高さを求める心性をいたずらに嫌悪し、排除することではなく、いかにして爆発しない程度にそれを満足させていくかということにあるのだと思う。何もかも蓋をしようとすることは、逆にナショナリズムの暴発を生み出しかねない。

しかし実際問題として、崇高さを語りえる人材はすでに払底しつつあるのかもしれない。逆に崇高さを嫌悪する陣営はアカデミズムやジャーナリズムのお墨付きを得て有象無象がひしめいている。このアンバランスは逆に、一人のスターにすべての人望が集中する現象につながる可能性はあるのではないかと思う。

ちょっとそんなことを考えた。(5.30.)

頭山統一『筑前玄洋社』を読了。いろいろな意味で重く、読むのに苦しさを感じるときも何度かあったのだが、何とか読み終えた。玄洋社といえば著者の祖父にあたる頭山満が著名であるけれども、彼は社長になったことはないし、頭山自身の存在と玄洋社はあとになればなるほど分けてとらえたほうがよいようである。

頭山自身が積極的に政治にかかわっているのは、玄洋社創立以前では萩の乱に参加して投獄され、西南戦争ののち高知へ行って板垣に決起を促したこと、玄洋社創立以後では来島恒吾の大隈外相襲撃事件、松方内閣下の第2回総選挙における「大干渉」を推進したことなどがあげられる。

大隈事件では大隈の条約改正案にある外国人裁判官の任用を阻止する(治外法権を撤廃するために外国人裁判官を任用するのは本末転倒だと考えた)のが目的だったが、その爆弾は自由党の大井健太郎の周辺から調達されたものだという。(これは他の本では未確認)また選挙干渉に関しては頭山が満足できる結果が出るまで何度でも解散しろといったのに対し、松方は一度でやめて自由党の取り込みに方針を転換したので、頭山は以後政治にかかわることに嫌気がさしたのだという。

この頭山が好んで口にしたのが「自らかえりみてなおくんば、千万人といえども我行かん」であったという。頭山は一人で千万人に対しうる人材を求め、探しつづけた。我々から見ると手段がどうかとは思うが、大隈を止めることができるのはその手段しかないと考えたのだろう。

また議会政治というものが数の政治である以上、一人で千万人に対する気概を求めても現実的に不可能なわけで、頭山が政治から遠ざかったのはそのせいだとしている。

その後の頭山の動きで特徴的なのはアジアの独立運動家、革命運動家を支援したことである。頭山にとって、彼らは一人で千万人に対する気概を持った「志士」であったのだろう。朝鮮の金玉均に始まって、中国の孫文、インドのボースなどを支援した。ボースは新宿中村屋の相馬黒光の下にかくまわれ、彼女の娘と結婚している。

このように考えてみると、その孟子の言葉も高校生のときに感じた爽快さとは全く違った凄みを帯びた重さを感じてくる。

この本を古本屋で買ったとき、裏の見返しには二つの新聞記事が貼り付けてあった。いずれも平成2年2月16日の日付の朝日・毎日のベタ記事で、著者・頭山統一氏が祖父・頭山満の墓前で短銃自殺を遂げた、という記事である。

それを見つけたときの慄然たる思いとこの本の重さを感じたことは、今も忘れることができない。(5.31.)

  

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