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筒井康隆『短篇小説講義』

短篇小説講義

岩波書店

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大手町に出て丸善で本を物色。いろいろ探したが、結局筒井康隆『短篇小説講義』(岩波新書、1990)を買う。まだ読んでいないが、取り上げられているのはディケンズ、ホフマン、ビアス、トウェイン、ゴーリキー、マン、モームといったビッグネームの作品。筒井がこれを書いたのは『文学部唯野教授』とか『夜のガスパール』とか文学づいていた頃のようだ。今読んでどんな印象を受けるのかはよくわからないが、ちょっと楽しみ。(3.26.)

身辺雑記というのは一番原始的な続き物、連載小説のようなものだが、筒井康隆によると小説というのは何をどう書いてもいいというジャンルなのでこれも小説と主張すれば小説ということになる。実際、過去の人間の日記を順番に読んでいくときに覚える面白さというのは、よくできた小説を読んでいるときの面白さと本質的にはあまり変わらない気がする。リアルな現実を生きる人リアルだし、ファンタジーを生きる人はやはりファンタスティックな日記になる。結局は技巧の有無だが、技巧に本質を見て評価すればそこにフィクションとしての価値が生まれ、技巧に本質を見なかったら「そこに文章がある」という存在自体が本質ということになるのだろう。最終的には後者が自分のスタンスになるのではないかという気がする。(3.29.)

昨日帰郷。昨日の東京は冷たい雨が降っていてとても寒かったのだが、特急が山梨県に入ったあたりで急に晴れてきて、信州はとてもよい天気だった。しかし夜には急激に冷え込み、やたら寒くなった。特急の車内では筒井康隆『短篇小説講義』(岩波新書、1990)を読む。昨日読んだのはディケンズ、ホフマン、ビアズ、マーク・トウェインの項。ディケンズはちゃんと読んだことがないが、この短編(「ジョージ・シルヴァーマンの釈明」)はかなり面白そうだ。ホフマンは短編集は読んだことがある。だいぶ昔のことで忘れてしまったが、やはり怪奇と幻想、見たいな話だった気がする。ここで取り上げられている「隅の窓」はそういう作品ではないが、なかなか面白いかもしれない。

ビアスのことについては『悪魔の辞典』の作者であるということしか知らなかったが、アメリカのサンフランシスコで活躍したジャーナリズム系の人だということは読んではじめて知った。アメリカ文学は知らないことが多いなまだまだ。トウェインの「頭突き羊の物語」というのは村上春樹を連想させるが、どうも当たらずと言えども遠からずという感じのようだ。筒井が説明しているナンセンスさはいったい何が面白いのか読んでいても全然わからないが、アメリカの作品の私などにぴんとこないところはそのナンセンスのセンスの面白がるツボのようなものがどこにあるのか見当がつかないということにあるんだなあと改めて思う。(4.4.)

筒井康隆『短篇小説講義』を読みつづける。昨日読んだのはゴーリキーとトーマス・マンの部分。ゴーリキーの『二十六人の男と一人の少女』という作品の「一人称複数の主人公」というのが筒井の『虚航船団』の中のある部分に似ていると指摘されたという話は面白いと思った。イシグロの『日の名残り』を読んだときに、「二人称による描写」が斬新だなと思ったことがあったが、複数の主人公というのも確かに面白い。

トーマス・マンの『幻滅』という小説については、記述を最初読み始めたときには気がつかなかったのだが、実は大学一年の後期にドイツ語の授業のテキストとして取り上げられていた小説だということに突然気づいた。とにかく難しくて、何を言っているのか全然わからない。ドイツ語も難解だし、どうにもならないと思って和訳されたものを読んでみたのだがそれでも何を言いたいのか分からない。ようやく「世の中は小説などを読んで想像していたほど面白くないので幻滅を感じる」という話だということがわかったが、「それで?」としか思えず、ほかに何かいいたいことがあるのではないかとさんざん考えてもわからない、というものだったことを思い出した。だいたいその授業はほとんどサボっていた私が悪いのだが、不可がついたような気がする。

筒井の書いているところによると、若書きの観念的な小説だが、トーマス・マンともなるとただ観念的ではない、というような評価で、なるほどそういう方向から読めばそう読めるんだなと思った。よく考えてみればこれを19歳の大学生に読ませる教員側の皮肉も相当なものだが、なんというか多分当時の私は「幻滅」など感じている暇がなかったので全然理解できなかったんだろうなと思う。そういう意味では教員の意図は空回りだったわけだが、多分面白いと感じた私などよりはずっと早熟な、あるいは文学的な学生もたくさんいたんだろうと思う。

なんだかこういう「のどの奥に何十年も引っかかったままの(現実には忘却の彼方に沈んでしまった)骨」のような記憶にある日突然めぐり合うというのも面食らうが、面白いもんだなあとも思う。こういう引っかかりのようなものを、私のような人間は実はものすごくたくさん抱えていて、ある日突然それを思い出すこともあれば、一生思い出さないまま引っかかりのままあの世に抱えていってしまうこともたくさんあるんだろうと思う。そういうことってありますか、ありませんか。人によっても違うんだろうなと思うけど。まあなんだか奇妙な感じだ。前向きのときはそういう感じも楽しめるが、後ろ向きのときはただ変な感じ、場合によっては妙な鈍痛になったりするときもあるんだろうなあと思う。(4.6.)

昨日帰京。特急の車内で筒井康隆『短篇小説講義』を読了。最後に取り上げられていたローソン「爆弾犬」が面白かった。スプラスチックの原型となった小説という感じで、そのパターンを筒井が解説しているとちょっとはまりすぎだが、面白い。(4.7.)

短篇小説講義

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