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筒井康隆『文学部唯野教授』

文学部唯野教授

岩波書店

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小宮山書店のガレージセールを物色。よくみると面白そうなものがたくさんある。3冊500円のコーナーで筒井康隆『文学部唯野教授』(岩波書店、1990)、渡辺昇一『渡辺昇一エッセイ集 文明の余韻』(大修館書店、1990)、草柳大蔵『齋藤隆夫 かく戦えり』(文藝春秋、1981)の3冊を買う。ハードカバーの、内容もかなり濃さそうなものを3冊買って500円ということになると新刊本というのは高いなあと改めて思う。

『文学部唯野教授』はだいぶ評判になったがまだ読んでなかったのでそろそろ読んでみてもいいかなと。15年くらい時代に遅れたが。(2005.3.22.)

文学部唯野教授』を読み進める。これは相当面白いし無茶苦茶だ。例によって筒井康隆の俗物一覧表、という感じだが、まあそれがアカデミズムを舞台にしているから面白いのだろうな。現実にこういうことはあるだろう、と思う部分と、いくらなんでもこれはない、あるいは昔はあったかもしれないが今はないだろう、という部分もたくさんある。どちらにしても筒井ワールドではある。

もうひとつ面白いのは、やはり文芸批評の歴史をわかりやすく解説しているところだろう。主人公が大学教授で、小説としてこれだけはちゃめちゃでありながら、講義の描写の部分がこれだけ白熱している小説はそうはないと思う。筒井さんという人は相当頭がいいしめちゃくちゃ勉強しているということはよくわかる。まだ読み終わっていないがPCトラブルのおかげでこんなに厚い本をほとんど読んでしまった。ついでに『宮澤喜一回顧録』も読み進めたが、こっちも面白いのだけど、筒井と同時に読んでいるせいかこちらもなんだか悪い冗談のような感じがしてきて変だった。(3.24.)

昨日は朝食後松本に出かけ、お昼過ぎに戻る。昼食はタンメン。午後はメールチェックなどして書き物を少しだけ、本当に久しぶりに書いた気がする。続けて『文学部唯野教授』を読了。落ちは「想定の範囲内」とはいえやはり筒井のうまさを感じさせる。「文学との和解」とともに文学の象徴たる女性が主人公の元に戻ってきた、ということかなと思った。文学と俗事を対比させ、それぞれその象徴的な女性が現れて情交を交わすという設定も、展開のうまさで読ませているが、実は結構古典的なつくりになっている。そこが読みやすさでもあるのだろう。

しかしまあ、文学理論にこれだけの歴史があるということは、詳しいことはぜんぜん理解していなかったし、結局は文学というものは有閑階級の慰みものというか、本質的にそういうところのあるものなのだなという印象を強く持った。文学は世界を変えうるか、といった文学外のテーマとの関わりと、文学こそが文明文化の中心であるといった文学至上主義への傾倒と、それぞれにあるけれども、なんつーか、うーん。だから何?的な議論も結構ある気がする。ポスト構造主義の脱構築の理論とフェミニズム批評理論が深い関係があるとかそういうことは知らなかったが、いわれてみればなるほどと思い当たるところもある。あっち行ったりこっち行ったり、それぞれが時代の産物であるとは思うが、こうしたさまざまなものを動かす根源的な力は何だろうと思うのは、私が歴史中心的な発想の持ち主だからだろうか。(3.25.)

筒井康隆『文学部唯野教授のサブ・テキスト』

文学部唯野教授のサブ・テキスト

文藝春秋

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三省堂で本を物色。目にとまった本はなかったので2階の文庫コーナーに行って筒井康隆『文学部唯野教授のサブテキスト』(文春文庫、1993)を買う。この本は元の『唯野教授』ほど面白いとはいえないが、「ポスト構造主義による「一杯のかけそば」分析」というのは大笑いだった。「一杯のかけそば」という話、流行ったときにはどうも嫌な感じがして読まなかったのだが、筒井の作品を読むとやはり嫌な感じだということはよくわかった。毒をもって毒を制すというか、筒井の「分析」によってようやくその毒が中和されたという感じか。かといって筒井の分析が必ずしも当たっている、と思ったわけでもない。これはファシズムだ、という分析は当時けっこう流行っていた気がするが、本当にファシズム的なのはもっと違うものだろうと思う。筒井はこの分析を「小説」だといっているが、まあ真っ当にこれを「批評」だとしたらクレームがつく可能性は高いな。小説は虚構だという前提があるから言い逃れられる、という面はあるし、まず筒井という人は純粋な虚構性というものをかなり愚直に追及している面もあるから、それなりの正当性もあるのだと思う。

まだ読了していないが、これに関連して書かれた『フェミニズム殺人事件』というのも面白そうだ。これは社会思潮としてのフェミニズムというよりは、文芸評論の「フェミニズム批評」の批評、という面が強い感じがする。しかし「フェミニズム批評」というものがどういうものかよく知らないので何ともいえず、まあ論評は読んだあとだ。(3.27.)

筒井康隆『文学部唯野教授のサブ・テキスト』(文春文庫)読了。作者と河合隼雄・鶴見俊輔との鼎談で、『文学部唯野教授』についていろいろ評価があったけれども、主人公の特性である「饒舌」そのものを評価した批評が何もなかったのが残念だった、と言っている。確かに饒舌というのは個性とは見なされても何かそれそのものが重要だと意識はされにくいことだろう。「雄弁」ならともかく、「饒舌」が何か意味を持つということが評価されえるか。私もついいろいろ書きすぎるタイプだし、おしゃべりも話し出すと止まらないところもあるので、そういうのは少々興味深い。

それに関連して、筒井は「言語感覚が一番クリアになって研ぎ澄まされるというのはやっぱり笑いじゃないか」という。「笑いというのは、一所懸命言葉をいじくり回していると、…なんとなく頭の中が透明になるという感じがする」、という。これは確かにそうかもしれないと思う部分もある。頭の中もクリアになるが、本気で笑うと腹のあたりがすうすうしてくるというか、「腹蔵なし」という感じがしてくる。それがちょっと頼りない、不安な感じも呼ぶのだが、笑うと精神が活性化されるのは確かだし、そういう意味では頭の中はクリアに前向きになるとはいえる。

その他、いま全国で教授以下助手まで含めて大学の教員は12万人いて、旧制の時代の中学校教師の数より多い、というのはいわれてみればそうだろうと思うけどちょっと驚いた。何度か書いたが、普通中等教育というのは洋の東西を問わず本質的にエリートのための教育だったので、数が少ないのは当たり前なのだが。つまりは旧制中学より、現代の大学の方が遥かに大衆教育機関である、という当たり前のことの同語反復に過ぎない。しかしどうしても、「大学」という言葉と「中学」という言葉のイメージに引きずられてしまうので、つい現実を見誤ってしまうのだろうと思う。(3.28.)

  

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