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村上春樹『スプートニクの恋人』

スプートニクの恋人

講談社

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『スプートニクの恋人』は、何か村上の長編を読もうと思っていくつか物色したのだが、題名がいいなと思って買ったのがこれだった。まだ120ページ目くらいを読んでいるが、これもなかなか面白い。好きかと言われると微妙だが、村上と言う作家は読者が作品を「好きであること」を要求しない作家だ、という気がする。プーシキンなどは、はっきりいって好きでないと読めないと思う。スコットもそういうところがあった。プーシキンは本当に好きだったからいくらでも読めたが、スコットはすげえ好きでもないけど付き合ってる女の子、みたいな好きにならなきゃいけないんじゃないかという軽い義務感が負担になるような部分が無いでもなかった。一冊は読みきったが二冊目はちょっと時間を起きたい、みたいな。まあ本だからいいけど女の子だとこれから付き合っていけるかどうかちょっと途方にくれたりするような感じ。村上は、好きになる必要は無いよ、といってるようでこちらが気楽だし、どこから読み始めてどこで終わりにしてもいい読みやすさがある。

「記号と象徴の違いを説明できる?」という台詞があって、そういう方面には暗いのでGoogleってみたら検索結果がほとんど『スプートニクの恋人』について書いているもので笑った。それだけみんな読んでるんだね。

並行して『陰陽師』も読み直していて、今はようやく12巻の冒頭まで来たが、最初から通読してくると内容の深まりが非常に鮮明に見えてきてしみじみよかったなあと思う。11巻に「かげくらき月の光をたよりにてしずかにたどれのべのほそみち」という和歌が出てくるのだが、誰の作かは知らないが異様にいい歌だと思った。人生ってこんなもんだよなと思う。「ひとりにひとつずつ 各々のための人跡未踏の小径(プロセス)が用意されている」という言葉もいいなあと思った。(4.16.)

『スプートニクの恋人』読み進める。作り方としてなかなか巧妙な話だなと思いながら読む。今150ページくらい。女と女の、(いまのところ)プラトニックな恋愛と言うのは昔は多分かなり抵抗があったと思うが、今では返ってすっきりした感じのものとして読むことが出来る。貧乏臭いヘビースモーカーの文学少女がハイソサエティ的な開花をするところなどはピグマリオンだが、単なる語り手としてのみ存在するのかと思っていた「ぼく」が年上の人妻と不倫を繰り返していたりして妙に肉体的だ。生活感のようなものはほとんど出てこないのだけど、肉体的な感触のみは妙に残って、そういう意味で適度に(たぶん現代では)刺激的だ。

ずっと読んでいて思うのだが、村上は共同幻想といったら大げさだが、我々の時代の想像力のようなものを適度に刺激してそれを活性化させ、物語世界に同化させる手練に長けている。つまり想像の範囲内で想定の範囲外の事象を次々と繰り出し、物語を華やかにしながら、我々自身の想像力にも相当依拠していると言うことだ。もちろんフィクションである以上は当たり前なのだが。

しかし当たり前と書いたが本当に当たり前かというとそうでもないかも知れない。しばらく19世紀初頭の外国文学ばかり読んでいたから、彼我の「想像の範囲内」と言うものが相当違うと言うことを強く意識しながら読んでいた。実際には、同じ時代の同じ日本人であったとて想像の範囲というのはかなり違うはずなのだが、結構同じと言う共同幻想を抱かせるのがうまい。翻訳を意識して書いているというのも、そういう世界的な共同性(普遍性とは言うまい)をうまくつかんでいるという面がある。

しかし、その共同性の範囲はどのくらいのものなのか。ダルフールの難民は、村上に共感を覚えるのか。パレスチナの石を投げる少年は、ペルーのフジモリを支持する貧困層は。それらは現代においてはある種の極端なものではあるが、時代をさかのぼればそのギャップはどんどん大きくなるだろう。

私はフランス革命前後の歴史をやっていて、結局フランス人というのは理解できない、という結論に達した苦い覚えがある。それは私自身の色々な意味での能力不足ということが大きいのだと思うが、人間同士のお互いに理解できない部分の大きさというものを思い知らされたので、想像力で理解の範囲を拡大できるというテーゼに対してはかなり否定的になっていた。だから村上を読みながら、想像力で何とかなる世界がそこに展開しているのに、ちょっと違和感と不満を覚えていることを、銀座一丁目を京橋の方に歩きながら感じていた。

しかしそれは距離感の問題であって、人間は何も絶対的に孤独でなければならないということもない。遠いから孤独であるというだけでなく、近くても孤独だということはいくらでもあるし、その逆もまたある。ただいまはまだ距離感を測りかねているだけに過ぎないのだろう。慣れて来れば、ゴルファーが自分の3番アイアンは170ヤード飛ぶ、というくらいの距離感は生まれてくるのだろうと思う。(4.17.)

昨日。村上春樹『スプートニクの恋人』読了。なんだかぼおっとしてしまった。なんというか、うまく言えない。ディテールについてはいいたいことは結構あるのだが、とりあえずそういう問題ではない、という感じだ。村上の短編は奇妙な感じというのがあるが、『スプートニクの恋人』はラスト近くを読んでいるとなんだか気が遠くなるような感じがしてきた。いろいろ始末のつかない感情や感覚や思考が出てきてぼおっとしてしまうと言うか。普段は仕舞っていてなるべく外に晒さないようにしている、というよりそういうものが仕舞い込まれていたということさえ忘れていたような感情や感覚や思考が次々に繰り出されると言う感じである。短編でもそういうものを部分的に感じはしたのだが、長編になるとその露出が本格的になり、あとで自我を収拾するのに一日くらいかかる、『スプートニクの恋人』というのはそういうところがある。

『スプートニク』のもとの意味は旅の同伴者だ、という言葉が出てくるが、ロシア語辞典で調べてみるとそういう意味もあるけれども単純に「衛星」と言う意味もある。月は地球のスプートニクなのだ。スプートニク1号とは衛星1号ということで、北朝鮮のミサイルが労働1号だったり中国のロケットが東風1号だったりするよりももっと単純だ。しかし逆に月は地球の同伴者だ、と言われればまことにその通りなので、考えてみれば美しい。

ラストの必然性がもうひとつうまく飲み込めない。狐につままれたような気持ちが残る。一寸時間を置いてから読み直してみて、また考えてみた方がよさそうだ。井伏鱒二『山椒魚』のラストを思い出す。あの有名なラストシーンを、何回目かの全集に所収したとき、井伏は削ってしまった。無いほうが短編として引き締まっているように思える、というのが理由だったようだが、あれは結構衝撃を呼んだ。その反響を井伏は驚いていたようだが、小説がある社会性を持ちえるとその削除加筆も大きな影響を及ぼすと言う典型的な例だ。『スプートニクの恋人』のラストは削られてもそれはそれで成り立つ気がする。どっちがいいのかは、よくわからない、今のところ。(4.18.)

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