本探し.netTOP >本を読む生活TOP >著者名索引 >カテゴリ別索引 >読書案内(ブログ)

佐藤俊樹『桜が創った日本』

桜が創った「日本」―ソメイヨシノ 起源への旅

岩波書店

このアイテムの詳細を見る

昨日は昼を食べたあと町の本屋で本を物色し、珍しく2冊買った。両方とも岩波新書なのだが、佐藤俊樹『桜が創った「日本」』と見田宗介『現代社会の理論』である。学生時代、一度は社会学方面に進もうと思ったこともあったのだが、最近は全く離れていた。先日『希望格差社会』を読んで社会学の面白く思える面を再確認したこともあり、なんとなく社会学の人の本を二つ買ってしまった。佐藤のほうは「桜といえばソメイヨシノ」となった過程を社会学的な見地から追う、という感じの本である。確かに東京では桜といえば染井吉野なのだが、京都に行って里桜や八重桜、枝垂桜のこの世のものとは思えない美しさを味わった経験から言うと、染井吉野は物足りないところがある。また「社会学臭」とちょっと格闘しそうだが、時間のあるときに読んでみたい。見田の方は壮大なコンセプトであるが、ある種のコスモロジーを垣間見るという感じだろうか。(2005.3.4.)

車中では佐藤俊樹『桜が創った「日本」』(岩波新書)を読む。案の定「社会学臭」はやはり強いが、なんというか著者のほのぼのとした人間性とか、本当に桜が好きなんだなあ、という感じがそれを多少救済している感じがする。染井吉野の起源というのが、実は伝説に包まれている、という話はなるほどなあ、と思った。染井吉野だけでなく、よくある薀蓄話というものの多くは必ずしも歴史的事実ではない「お話」であることは確かだろう。そしてそれが「お話」であることを分析して、それが作られた理由を考察し、例えば染井吉野の全国的な普及と「軍国主義の高まり」との関連性を見出すことによって「新たな物語」が作られていく、という構造もまたそのとおりだと思う。著者の視点もそういう常に更新されていく物語の中に自分もいるということを自覚していて、そのあたりは確かに好感が持てる。

まだ読んでいる途中だが、そういう「コンテクスト(文脈)の森」の中にわれわれは住む、われわれはいまだに<森の住人>なのだという自覚を持ちつつ、それでも何かを確認しながら生きているのだという少々難しいテーマの中で、「桜」を選んだことは、そこに色や匂い、あるいは「好きだと言う感情など、確かに実在的に感じられるものを頼りにそうした探検ができるということで、それはなかなか成功しているかもしれない。

ただ、文中にあまりに「語り」という言葉が多出するのが気になる。上のように書いてみると、まさに著者がその「語り」にこだわっていることが理解できるのだが、森の住人が森の中で「これが何という木」、「これが何という木」、と憑かれたようにくりかえすように、「…という語りがある」「…という語りは、…」といった展開になっていることが多い印象である。読んでいるとだんだん何だか騙(かた)られているような気がしてくる。

「語り」、ということばはもちろんタームとして使っているのだろうし、おそらくは一時多用された「言説」という言葉、つまりはフランス語の「ディスクール discours」を日本語的にこなす、という意識で使っているのだろうし、多分この著者だけでなく使っている人は多いのだろうと思う。ただ、こういう言葉は「視線」を「まなざし」といいかえたりするようなある種の気持ち悪さがどうしても拭えない。そのあたりがひとつ私の感じる「社会学臭」の原因なのだと思う。まなざし、というもともとある日本語に言い換えてはいるが、そこには日本語としてのまなざしと言う意味の広がりがなく、社会での見る・見られるの関係を表現する上での「視線」という意味を言い換えただけに過ぎないので、逆にその使用法がまなざしという和語の味わいを侵害しているように感じるのである。

このあたりは、役所の言葉が横文字で表現するのを批判されたら何でもひらがなで表現するようになった、「みずとみどりのまち」宣言みたいな感じと同じ愚かしさが感じられる。「さいたま市」ということばの愚かさと、「南セントレア市」ということばの愚かさはそういう意味では同じ種類であろうし、そういうものと「語り」や「まなざし」というタームの気持ち悪さは通底しているように思う。

だから確かに言説とかディスクールという表現は生硬ではあるのだけど、新しいがゆえにその違和感で日本語のその他の言葉に対する破壊的な影響はまだ少ないように思う。「戦争犯罪を追及するおんなたちの会」みたいな、なぜ女をひらがなで書く、という鼻につくいやらしさのようなものからはまだ救われている。

ああ、ここまで書いて来て気がついたが、社会学のこの系統の人たちのこうした「語り」(笑)の理由は、彼らが「言葉」というものが信用できないからなのだ。言葉というもののもつ重層的な文化的蓄積といったものの「罠」からどうやったら逃走できるかという絶対的に解答不可能な問いと戦いつづけているからなのだ。こういうところは人文学系統の、言葉というものにある安らぎを覚える感覚(もちろん安らぎばかりではないが)とは違うものがあるなあと思う。言葉ひとつひとつを全く相対化していくということは現実には不可能なのだが、あっちを押せばこっちも動く、みたいな、霞網にとらえられたツグミ状態でそれでもなおかつもがいている、という感じがある。そういうことが解決可能なのか、まあ私などはあんまり近づきすぎると危険な感じがするし、たまに読むくらいのことなのだが、そうした表現の気持ち悪さもある意味で言語という巨大な霞網から逃れようと努力した結果のある種の呪術っぽさの現れと捕らえておけばいいのかもしれない。

この私の文章、何いってるのか理解されるのだろうか。そっちの方が心配になってきた。(2005.3.6.)

昨日はまずとにかく『桜が創った「日本」』を最後まで読了。この本はいろいろなことを考えさせられたが、言い方は違うけれども、桜というものの「語り」、日本というものの「語り」のステロタイプをやめよう、というようなことが最終的な趣旨なのではないかという気がする。どういう種類の「語り」を問題あるステロタイプとするか、ということについてはずれがあるが、それ自体は私が常々思っていることと同じことだと思った。科学的であることを重視したり、はっきりとシステム/環境のシステム論的理解の採用を言明しているところが特徴といえようか。で、この本のあとに桜に対する、あるいは日本に対するどういう「語り」が出て来ることを期待しているのか、ということを考えるとそこはきっと自分とは大きく違うだろうなと思う。ただ、自分が読む前に考えていたよりはかなり深いところまで問題を掘り下げている本だなとは思った。

そして、そこまで掘り下げて考えてよいのなら、私自身もかなり多くのジャンルの本を読む気になる。昨日は何だか面当て的(?)な書きかたをしたが、実際には私自身の完成が凄く掘り起こされ、呼び起こされたような感じがする。今まで冬眠状態にあったいろいろなことに対する感覚が、一気に呼び起こされて凄く興味を持つジャンルが蘇って来てしまったのだ。

感じることと動くことは必ずしも同じではない。最近、家の中で体操のようなことをして体を動かすと左手をぶつけることが多かった。きのうもちょっと体を動かしたら思いっきりテーブルにぶつけてしまい、今でも痛い。動かすことに心が行ってしまうと、普通だったら感じるはずのテーブルの存在が見えなくなってしまう。ここのところ傾向としてそういうところが強くなっていたのだなと思う。『桜が創った…』も読んでいると細かい思考にすぐに入っていったり、入れ子状に語りの構造を逆転させたりしていて油断ならない部分がある。久しぶりに「読む」ということに緊張感を要求される本だった。しかしそれもからだをじっと固くしていればよいというようなものではなく、頭の中の怠慢になっている部分にもグランド10周を命じるような、鍛えられる感じがある。

いろいろな意味で面白い本だったが、さて、この本、ほかの人が読んだらどのような感想を持つのだろうか。(3.8.)

  

トップへ