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福田和也『作家の値うち』
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午前中は福田和也『「作家の値うち」の使い方』を読了。文学というものを見直さなければいけないなと思い、午後図書館に出かけていろいろ見ていたら、平林たい子文庫というのがあって、彼女の遺族から寄付された蔵書が並んでいるコーナーがあり、それが面白くていろいろ読んでいたら仕事に行く時間になってしまった。最近では図書館もなかなか蔵書の寄付を受け付けていないようだが、作家の蔵書と言うのはそのリストを見ているだけでずいぶん面白い。私は平林たい子はほとんど読んだことがないが、意外と読んでいるものは目配りがきいているような気がする。戦前の共産党から転向した鍋山貞親の本が数冊あったのとか、こういう人らしい蔵書があって興味深かった。
最終の特急で帰京し、いろいろやっているうちに夜更かしになり、土曜日は午前中はあまりつかえなかった。お昼頃でかけて駅の近くのそば屋で鴨せいろと筍ご飯のセットを食べる。春だ。そのまま電車に乗って日本橋に出、丸善で文学史の本を物色するがいいものがなく、ブックセンターまで行っていろいろと見、結局福田和也『作家の値うち』を買う。このように、結局後日談の方から買うというか、時間経過を逆にさかのぼる形で本を読むことは私にはよくあることなのだが、まあそれはそれなりに面白い。
で、午後はずっとこの本の読書に没頭し、夜には読み終わる。文学の現在の状態というものがそれなりに理解できたような感じがあり、こうした本の存在はありがたいと思う。何しろ、『現代文学史』と題した本をみても大体は石原慎太郎や大江健三郎が新人の段階までで終わっているのがほとんどで、現在の状況が文学史的にどう位置付けられるのかがわかる本はほとんどないのである。現存作家、それも小説についてのみの本なので文学の全体状況がわかるというところまでは行かないが、文学についての作者の理解というか全体の見取り図は非常によくわかる。もともと文学については全体的にあまり読んでいるわけではなく、ブックガイドとして上げられている本もほとんど読んだことがないが、むしろそういう人間にとってありがたい本かもしれない。
読んだことのある本についてメモ。その作家については読んでいても名の上がっている作品を読んだことがないという人もかなりいる。山崎豊子が『白い巨塔』や『華麗なる一族』を書いた大作家だということを知らなくて仰天した。『大地の子』や『沈まぬ太陽』の失敗した社会派大作の作家というイメージが強かったのだが、認識不足であった。いらぬことはよして一応読んだことのあるものをあげると、
五木寛之『戒厳令の夜』。44点だが、まあこんなものかと思う。しかしけっこう読みやすい。そういえばこの本を読んだのは呉智英が批評しているのを読んだからだった。まあ軽く読むなら読みやすいが、題材に対するあまりのこだわりのなさに反発を覚えると面倒かもしれない。でも五木という人のある特徴がよく現れている本だと思う。エンターテイメント編で読んだことがあるのはこれだけ。そういえば橋本治や荒俣宏が載ってないな。
純文学編では小林恭二『ゼウスガーデン衰亡史』。76点だが、意外な高得点。なるほどポストモダン文学の旗手か。この人は『電話男』や『小説伝・純愛伝』などいろいろな必要があって読んだのだがこのごろはどうもあまり、のようだ。
丸山健二『ときめきに死す』。71点。実は原作は読んでいないが、森田芳光の監督、沢田研二・杉浦直樹・樋口可南子という強力なキャストでオオコケした映画。私はすごく好きで、テレビでやったときも見ているのだが、当時の朝日新聞の映画評がかなり酷評していたのが観客動員にも響いたのかもしれない。それ以来評論というものは信用しなくなった。原作とどのくらい違うのかはよくわからないが、森田監督のことなのでいったいどうだろう。
村上龍『限りなく透明に近いブルー』71点、『コインロッカー・ベイビーズ』82点。『ブルー』の方は読んだのが多分小学生のときだったのでさすがにわけがわからなかった。『コインロッカー』は大学生のころだが、ものすごく面白く感じた。「廃墟としての未来」というイメージの成立か。なるほど。大友克洋の漫画とか、言われてみればこの作品の影響を受けているものは多いかもしれないな。
山田詠美『ベッドタイムアイズ』73点、『蝶々の纏足』65点。『蝶々』の方はほとんど内容を覚えていないが、『ベッドタイムアイズ』は非常に名文だと思う。文章にしてもそこにある黒人脱走兵と女の子の関係にしてもなんというか珠玉という感じで、ひりひりした感じがとてもいい。
吉本ばなな『TUGUMI』71点、『白河夜船』62点。吉本ばななはここには上がっていないが『哀しい予感』が一番印象に残っている。表紙が原マスミだったし。後半の終わりのほうがジュニア小説みたいになって面食らったが、それも一種の特徴なのかもしれない。『白河夜船』の書き出しもちょっと印象に残っているな。
と、以上なのだが書いてみると、やはりいろいろと印象に残っているもので、それにしても同じ小説といっても文学畑の人たちの読むものとかなり違うということになるのだなと思う。自分の読んだことのあるものをあげてみると明らかにひとつの傾向があるように感じるのだが、さて、それはどういう言葉で表せばいいのだろう。
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友達と電話で話したのは近頃の映画の話と、文学や批評の話。『ときめきに死す』をけなした評を読んで以来映画評を信じなくなった、という話は先ほども書いたが、この年になってくるといいものをいい、良くないものをよくない、ときちんと「価値」を語れる批評家が寥々たる状態だということ自体が問題だ、ということをつい熱く語ってしまう。友人はいまは休業中(?)だが絵描きなので、批評や評論家という存在については批判的な見方が強い。大体現場でいろいろなことをやっている人はみんな評論家というものを「ふざけるな」と思っているもので、それは自分の経験からも良く分かる。しかし、そういうことを越えてきちんと何が大事か何がいいものかという借り物でない価値を語れる評論家はどんな分野でも絶対にいた方がいい。
で、評論というもののたとえで食の評論家の話になり、ただ有名な鮨店の悪口ばかり書いてえらいだろうという風情の評論家を強く批判したりして、えてして自分たちと同世代には了見が狭いというか、文句ばかりつけてそれを批評だと思っている人品が卑しい人が多いという話になる。そういわれてみれば批評家に限らず、妬み嫉み恨みを批評という形をとって毒を吐く貧しい感性の人が我々の世代には残念ながら多いということで意見が一致した。確かに我々の世代は根が貧乏かもしれない。いろいろな意味で余裕がなく、遊びを知らない。そういうものを越えていくことは多分世代全体の課題なのだろうと思う。平成元年、バブルの頂点で27歳という世代の本質的な貧しさ。
『作家の値うち』を読んでいても思ったが、戦後の作家というのは結局「何々派」と家「何々主義」いう形にならない。「第3の新人」とか、「内向の世代」とかといった世代的なくくり方がせいぜいで、全共闘世代とかポストモダン世代といった文学以外の定義の仕方になってしまう。ポストモダンというのは我々の世代になるが、それよりは子どものころよく言われた「新人類」のほうがましかもしれない。逆にいえばその時代に共通した文学的な課題というものが崩壊してしまったのが現代という時代の特徴なのかもしれないが。それにしても、既にたとえば自我に関する問題に関しても語ることができるのは小説が特権的なメディアであるという時代ではなくなっているし、小説だけを取り上げるのではなく映画や漫画などもその範疇に入れて考えなければいけない時代なのだと思う。ゲームに関しては自分がやらないので良く分からないが。芸術思潮についてどういう形で語るべきなのか、批評の方法論も確立していないというべきなのかもしれない。
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もともとこの本を読んだのは、日本の近代についてのある問題について考えているうちに文学でその思潮を代表できないかと思って文学史を読み直し、しかしそれだけでは現代の文学については総括できないのでこの本を手にとって見たということがあるのだが、この過程の中で自分自身にとってもこの時代に関してもいくつかの発見があったように思う。
私は文学というものは基本的に左翼的なものだという思い込みがあったのだが、どうも違うらしいということが平林たい子文庫にあった吉田精一の本で気がついた。戦後思潮は全体的に非常に強い左翼的な傾向の中で出発しているし、例えば教科書の題材などは『二十四の瞳』を書いた壷井栄をはじめとしてプロレタリア文学の作家が多かったりするが、文学では戦前の前衛政党の抑圧的な体質に対する反発がもともと強かったようで、戦後も左翼的な傾向はあまり強くなかったといえるのではないかと考え直した。確かに左翼的な作家は多いけれども、それを『主流』と見るのはむしろ自分の目にフィルターがかかっていたからかもしれないと思った。
私はもともと日本的なものとか日本的な自然とか白虎隊のように「殉じる心」というものに強く感動し共鳴する性質の人間なのだが、親を含めて回りの環境がどちらかというと左翼的で、感情的、すなわち根本の部分は保守的というかまあそっちの方なのだが、論理的な部分が左翼的なものを身につけて成長するという分裂を精神的に抱え込んでいるといえるのではないかということを考えた。そういう人は多分私だけでなくたくさんいると思うけれども、大人になる過程の中でどちらかを切り捨てていかざるを得なかったことが多いのではないか。自然に日本が好きな部分を切り捨てて左翼としてやっていく選択をした人も多いと思うし、私のように迷いに迷った結果、左翼的な部分を自分の中身を含めて批判していかなければならないという選択をした人もあると思う。
だから私は「心情左翼」では全くなく、もともとは「心情「右翼」」で(右翼というには天皇という存在に対して直情的な親愛感に欠けるから違うと思うのだが)、「論理左翼」とでも言うべき性質なのだと思う。その論理の部分を解体しつつ自分自身の納得できる論理を再構築しているのでなんだかわけのわからなくなっている部分もあるが。
しかし世の中には心情左翼というか、革命とかそういうものが好きで仕方がなく、批判者には当たりかまわず毒を吐き散らすという人はいるのだなとこのごろむしろ感心する。右であれ左であれ、論理も感情も揃ったクールヘッド・ウォームハートで行きたいものである。
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なんか澄ましたまとめ方をしてしまったが、どうも書いているうちにずれてしまう。
『作家の値うち』を読んで強く思ったことのひとつは、現代人は「動機」に飢えている、ということだった。最近松本清張の『砂の器』や山崎豊子の旧作『白い巨塔』がリメイクされているのは、あの時代には確かに強烈な個人的な「動機」があった、ということへの憧憬があるのではないかという気がする。それは現実の事件もそうだが、殺人なら殺人には、何か隠された強烈な意味が過去にはあり、その否応なく起こった殺人の意味を解いて行かなければならないという必然性を読み手に感じさせたのだが、最近の殺人にしても作品にしてもそういうものがかなり薄くなっていると思う。
殺人というもの自体はもちろん今でも起こるのだが、その動機というものがニュースを読んでいてもあまり理解できないというか、納得出来ないものが多い。最近は文学でもミステリーが全盛だが、本当に殺さざるを得ないほどの動機がうまく書けている作品というのはどれだけあるのだろうか。最近のものでは「動機」に困ると「幼児期のトラウマ」だった、というものが多いというが、確かに普通の人間でも特にウェブなどを見ていると自分が現在今こうであるのは幼児期のトラウマで…というものがずいぶん目につく。人間というものは弱いものだから確かにそういうこともあるだろうと思うが、自分ではどうにもできないことにその原因を求めるということはある意味自分がこうしてしまったのは自分のせいではないのだ、というある意味での「無責任さ」が感じられてしまうというのは福田の主張するとおりであろう。そこから個人や社会が何か生きる力を得ていくということが何ほどかあるだろうか。もちろん全然ないとはいえないが、そればかりではやはり日本人が幼稚になったといわざるを得ないという福田の他著の題名を思い出す。現代人は『人を殺したいと思うほどの動機』に飢えていて、作家がそれを捜し求め、うまく書きえないという状況はまるで「動機探し」、動機を求めて彷徨うある種の「自分探しの旅」のような悲惨な滑稽さが現れているような気がするのである。
それは、例えば若手の政治家に感じる「政治への動機」の薄弱さというものとどこか似ていて、民主党でも自民党でもどちらでもいいからとにかく代議士として国会に「就職」しようという感じと共通するものがある気がする。
それは滑稽で荒涼とした精神風景なのだと思うのだが、世界にはそんなことを言って澄ましてられない人たちはいくらでもいるし、そいういうところに多分日本の現在がおかれた巨大な問題があるのだと思う。
文学にももちろん人間にも、緊張感を持って生きるためにはおそらくある種の抑圧が必要で、戦後の「自由」というものが日本人の精神をある意味で腐らせた部分が確実にあると思う。現在でははしかのヴィルスが普通に存在しなくなったために一度かかったことがある人でもまたかかってしまう可能性がある、という話を聞いたことがあるが、現在のあまりの抑圧のなさが人間をあまりに怠惰にしてしまっているということはあるように思う。だから日本を抑圧的な社会にしなければならないというのではなく、世界の中に日本の存在感をどう示していくかということを考えたら自ずからプレッシャーが生ずるはずで、そうしたものに耐えうる個人、耐えうる社会にしていかなければならないのだと思う。
なんかそんなことを思ったのだった。(2004.3.7.)