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司馬遼太郎『坂の上の雲』

坂の上の雲〈1〉

文藝春秋

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歩行者天国の道を南に歩き、bk1でちょっと本を見る。地下に鮨屋があったのでちょっとつまもうかと行ってみるが、「食べ放題」という看板が目に入って興醒めする。「〜放題」というのがこのごろどうも嫌いだ。「したい放題」「わがまま放題」など、もともと無礼とか放埓とか悪い意味の言葉だったのだが、最近は肯定的に使われてきていて、それが日本人の精神の締まりのなさ、骨髄に達したようなだらしのなさを象徴する言葉のような気がする。そんなものを売り文句にする食べ物屋はこちらから願い下げだ。…若いころはそういうものにお世話になったことも確かなんだが…

鮨に失敗したのでさてどうするかと歩いているうちに2丁目に銀座の利久庵があるのを思い出し、行ってみる。ここはいつも案外すいていて穴場なのだが、4人掛けの席に座れた。だしまきたまごをさかなにビールの小瓶を空け、天盛を手繰って満足する。気分のよいまま教文館書店を冷やかすが、けっきょく司馬遼太郎『坂の上の雲』の1、2巻を買った。本を読みたい気分ではないのだが、ほとんど抵抗なく読めるたぐいのものなので、時々気ままに読めばいいと思い。さてと振り返ってみればずいぶん散財した一日だった。(2004.7.31.)

なんとなく落ち着いて司馬遼太郎『坂の上の雲』を読み始める。漫画の江川達也『日露戦争物語』がどのくらい影響されているのかと思ったが、エピソード的にはここから拾ったんだろうなと思うものもいくつかあるけれども、江川もかなり独自によく調べているということがわかった。特に『日露戦争物語』では重要なキャラクターである白川義則が、『坂の上の雲』では、今は第2巻の途中だが、まだ出てこない。

明治初年の教育についてもいろいろ面白い。漢文は素読という形で伝統的に教育法が確立されていたが、維新後始まった『国語』という教育は何をどうしていいか分からず、国学者が古文を教えたらしいが、無味乾燥になりがちで生徒は非常に嫌がった、という話は面白かった。その他秋山兄弟のエピソードは面白いものが多い。(8.2.)

夜は『坂の上の雲』を読みつづける。第2巻もちょうど中ごろだが、もう日清戦争も終わっている。江川達也『日露戦争物語』ではまだ黄海海戦の最中であるから、まだまだ日清戦争は終わらない。江川の描写のマニアックさが物語を前に進ませないのだが、司馬は日清戦争に関しては要領よくさばいてあっという間に終わらせていた。「中国との戦い」というものを意識せざるを得ないのが坂の上の雲が書かれた1968-72年と現代との時代の流れの現われなのかもしれない。(8.3.)

寝る前に『坂の上の雲』を少し読む。秋山真之がアメリカに留学するために正岡子規にいとまごいを告げるシーンが胸を打つ。し気は秋山がイギリスに行くときに「暑い日は思ひ出せよふじの山」という句を送っているが、病気が進行していた米国留学の際には直接には贈っていない。しかし『日本』紙上で秋山真之におくる、として「君を送りて思ふことあり蚊帳に泣く」と詠んでいる。友情と自分の境遇への思いとがこれだけ十七文字に表現されえるのだなと思う。(8.5.)

列車の中からずっと『坂の上の雲』を読みつづけている。今3巻の終わりで、ついに日露は海戦し、旅順港口の閉鎖作戦で広瀬武夫が死んだ。あの「杉野はいずこ」の軍神広瀬である。考えてみたらこの軍国神話の、いかに感動的なことか。日清戦争の「死んでも喇叭を放しませんでした」の挿話はいろいろと脚色があるようだが、広瀬の戦死は虚飾がない。広瀬がペテルブルクに長期にわたって駐在していたことは知っていたが、そこで伯爵であり海軍の軍人である人の娘とかなり熱烈な関係になったことははじめて知った。開戦したあとも広瀬は第三国経由で彼女に手紙を出していたという。

秋山好古のエピソードもいろいろ面白いが、この人の人物の面白さを見ていると、おそらくエピゴーネンを生んだだろうなと思う。私が思うに、荒木貞夫はこの秋山の鷹揚な人物ぶりを意識的に真似たのではないかという気がする。もちろん天と地ほどの差であるが。大東亜戦争期には海軍の参謀にも天才と呼ばれた秋山真之の変人振りを真似た人物がいたというし、まったくエピゴーネンの横行が国を滅ぼすのだなあと思う。(8.7.)

中国は日清戦争で一方的に敗北を喫し、そのために列国からナショナリズムがない、国を守る気概がないと見なされて一斉に侵略を受けたと『坂の上の雲』で司馬遼太郎が言っているが、今中国はその教訓に過剰なまでに反応しているのだろう。中国の老婆が「小日本は謝ってばかりいるねえ」と馬鹿にした発言をしているのを読んだことがあるが、小日本とは中国では「ジャップ」や「二ップ」と同じ侮蔑用語である。中国人はその「教訓」から、中国の非難に反発せず謝罪を繰り返す日本を徹底的に馬鹿にしているのである。(8.8.)

外には蝉の声が聞こえる。『坂の上の雲』4巻読了。今日は長崎原爆忌。何があっても日本人の反米感情は盛り上がらない。日本人は「大人」だよ、全く。(8.9.)

『坂の上の雲』をずっと読みつづける。現在第6巻後半。知らなかったことが多く、とても面白い。ずいぶんたくさんの読者がいるわけだから、自分の知らなかったことをそれだけの人が知っていたかと思うとなんだか、である。

特に面白かったのは明石元二郎である。彼が日露戦争の時期にヨーロッパで革命を煽動し、ロシア帝国を足元から揺さぶったのは知っていたが、その過程がこんなに明らかになっているとは知らなかった。どこまでが事実で司馬遼太郎の創作の部分がどこまでなのかは確かめなければならないが、明石の人間像というのはへえ、と思う。諜報で働いたといっても全くそういう人柄ではないし、後に台湾総督をやったということもこういう人物ならうなずけるという感じだ。それどころか、いずれは総理大臣の器だ、という話さえあったというが、50代半ばで死んだためにそれは実現しなかったのだという。また建川美次など、昭和史に関わる軍人たちが端役であちこちに顔をのぞかせているのが興味深い。明治37年と昭和11年のあいだには30年ほどの違いしかない。70年代に活躍した人が今また活躍しても何も不思議がないように。(8.10.)

「坂の上の雲」を読み進める。現在第7巻前半、奉天会戦の勝利後のアメリカへの対露講和の働きかけの場面である。日本がカイゼルのロシアへの見方を異常に恐れていたという話が印象的。確かに三国干渉の悪夢再び、という感じである。また大山が満州からロシアを追い出して見せるが、そのあとのことは私はどうにもできない、といったのも印象的だ。日米開戦時、山本五十六が1、2年は暴れまわって見せるが、といったことと共通する。つまり山本も、勝っているうちに何とかなるものなら講和してくれ、という気持ちがあったのではないかと思った。もちろん講和を取り持つ国はどこにもなかった。終り方を考えないで−そんなこといったら国内的に危なかったということもあろうが−戦争をはじめるということがいかに無謀か。(8.11.)

昨日の夜は疲れてしまってすぐ寝てしまった。『坂の上の雲』は7巻の後半。読み方が上滑りしている。先を読みたいという気持ちが強く、内容を本当にはつかまないまま字を追っている感じで、それが頭の中の左の上の方の鈍痛につながっている感じだ。これはかなりハードな大作だから、本当はじっくり読みたいのだけど、時間がないという思いが強いのでなかなかそうも行かない。ただあとで、部分的に読み返すことはあるだろう。バルチック艦隊は仏領インドシナ周辺まで進出している。(8.12.)

『坂の上の雲』本文部分読了。あとまだあとがきがいくつか(初版時の全6巻のあとがきをこの文庫版では第8巻のラストにまとめている。)残っているが、さまざまなドラマツルギーを残しながらも物語りは終局した。これは確かに、『燃えよ剣』とは違うタイプではあるが、司馬遼太郎の代表作だと言ってよいだろう。作品のタイプが違うのは、幕末の剣士たちのロマンと国民国家を担う人々のロマンという、時代と担うものの違いに起因するのだろう。創作部分はあまり多くないが、しかしこの作品の中で日露戦争のさまざまなエピソードが語られ、存命の方々の思い出話まで語られているのは驚く。初版の1978年は既に日露戦後73年だが、まだそれを語りうる人が生きていたのだ。人の命は長いものである。数年前になくなった祖父が日露戦争より前に生まれたということに気がついたとき驚いたのだが、それを語りうる人も自分の高校時代には十分生きていたということにも驚かされる。

われわれの時代は、かたりうるものを持っているのだろうか、と思う。たとえば、われわれの時代が拉致被害者をすべて取り戻した、というのなら、それは苦い悔恨とともにではあろうけれども、語りうることには違いない。(8.13.)

『坂の上の雲』を完全に読了。いろいろ印象に残ったことはあるが、明治の陸軍の肋骨服といわれる黒に金モールの軍服が、カーキ色の昭和陸軍のものに変わったのが奉天会戦のころ、つまり日露戦争中に満州の黄色い荒野で敵に目立たないようにするためだったというのをはじめて知る。なるほど、やはり日本陸軍というのはロシア・ソ連を仮想敵として満州で戦うための軍隊だったのだなあと思う。インドネシアや南方での戦いに苦労した理由の一端が納得できた気がした。(8.14.)

  

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