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シュリンク『朗読者』

朗読者

新潮社

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何しろ昨日はワールドカップの敗戦ショックであまり寝ておらず、面倒な議論を電車の中で整理して読めるほど頭がクリアではなかった。サイイドを読むのを止めて『朗読者』を読み始める。電車の中で半分ほど読み、後は寝る前に最後まで読了した。電車の中で読んでいるときにはハンナという女性がリリアナ・カバーニの『愛の嵐』に出てくる女性、シャーロット・ランプリングの演じた女性のような印象が残る。まあそれは性描写がなんとなく共通点が感じられただけで、考えてみたら『愛の嵐』は収容される側のユダヤ人で、ハンナは看守だったわけだからポリティカルコレクトネス的にはそれを同じ印象で見ていたら怒られるようなことなのかもしれないと考えてみて思った。まあナチスとセックスという二つのキーワードで思いつくのがその二つだと言うことでちょっと単純すぎる気もしなくはないが。

なんというか、この著者はもともとは小説家ではないなと思う。つまりなんと言うか、細部に対する愛情がないとは言わないが、中途半端な感じがする。細部が肥大して全体を支配するのが小説という妄想のリアリティの本質にあると思うのだが、この作品は「書きたいこと」が全体を支配しすぎている、つまり「啓蒙的」である、という印象を読みながら持った。ちょっとその辺を感じたときに読んでいてしらけたのだが、ということはつまり言い換えれば、この小説は「大衆小説」なのだ、ということかもしれない。文学以外のものが全体を支配しすぎている。それは「自由と尊厳」という観念で、それは著者が本来法学者であるということの(小説にとっては)強すぎる刻印なのだ。

結局、これは「自由と尊厳」と「愛」のどちらを取るか、という小説だと思う。私は読んでいて、最後にミヒャエルがハンナを受け入れず、最後まで非難する態度を保ちつづけることに強い不快感を持った。ハンナが裁判を受けていて、本当は文盲であるのにそれを認めたくなくて命令書を書いたと発言し、それによって無期懲役になる場面で、傍聴者であったミヒャエルは哲学者の父に相談し、ハンナの態度を尊重すべきだと言う意見を引き出す。「幸福よりも自由と尊厳の問題だ」という主張である。この小説を最後まで読むと結局父が十分にミヒャエルら子供たちを愛せなかったのも、ミヒャエルがハンナを愛せなかったのも、最後にハンナが自殺してしまうのも、結局は「自由と尊厳」と「愛」のどちらを取るかという問題で前者を取った人たちだったからだ、と思う。そしてそれを不快に感じるのは、私が私自身を「自由と尊厳」ではなく、「愛」のほうを取る人間だと感じているからだろうとも思った。

まあそんなふうに考えてみているうちに、自分自身のある失敗した恋愛経験が、その二者択一が深刻な溝を作ったことによってもたらされたのだということが判明してきた。もう20年以上前のことだが。「自由と尊厳」というのはやはり観念であって実体ではないが、その観念が実体よりも重いと感じる人たちがやはり存在すると言うことなのだ。実際のところ、もし自分が全身全霊をかけて愛した人がナチスの強制収容所の女看守だったらどのように考えるだろうか、というのは考えてみてもわからない。私なら多分愛のほうを取る、と思うけれども、それも断言できることではない。日本人であれば、「その罪をいっしょに生きる」というようなことを考えそうな気もするが、ドイツ人であればその罪はその個人のもの、言葉を強くして言えば「特権的に」その個人のものであって、「罪を共有する」ことなどありえない、と思うだろうし、この小説の中でもミヒャエルは微塵もそういう思考も態度も取らない。ありえないことなのだ。だから結局、愛する人を糾弾するべきなのか、正義を捨てて愛するべきなのか、という二者択一しかなくなってしまうのだ。

ま、だから結局それは人間のタイプなのだろう。この小説にふくらみがないのはくりかえして言えばそういう「観念」に全体が支配されているからで、細部はそれなりに(というかかなり)美しいのにそれが観念の犠牲になっているのが私としてはとても不愉快な感じがする。まあしかしそのあたりも含めて、私とは違う感じ方をする人がたくさんいるだろうことは理解できるし、それなりに認めなければならないことなのだろうと思う。あんまり友達や恋人にして楽しい人ではないと思うが。なんだかとてつもなくわがままなことを書いているが、つまり自分はそういう人間なんだと思った。

ふと思いついたが、考えてみればこれは映画『第三の男』のテーマでもある。映画のほうはちょっと単純化されすぎている気もしなくはないが。(6.14.)

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