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デュラス『愛人(ラマン)』

愛人(ラマン)

河出書房新社

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体の調子のチェックも兼て図書館に出かけ、クッツェーを返却してデュラス『愛人(ラマン)』(河出文庫、1992)を借りる。その帰りにコージーコーナーでケーキを買い、茶十徳で宇治茶を買って帰る。食いすぎも腰には悪いのだが。(6.26.)

頭をなるべく休めるようにしているため、読書が止まっている。しかし、今の状態でも比較的読めるのはマルグリット・デュラスの『愛人(ラマン)』だ。こういう書き方を「意識の流れ」というのだろうけど、この流れ方が心地よく感じる。(6.27.)

特急の中と夜寝る前をかけてマルグリット・デュラス『愛人(ラマン)』(河出文庫、1992)を読み通す。フランス語文学と英語文学の性質の違いのようなものを実感できる。英語文学で、また日本語文学では「かもしれない」「ではないか」という表現になりそうなものがすべて断定の言い切りの形で表現されるため、(まあデュラスがそういう人だということもあろうが)とてもイメージが明確な像を結ぶ。これは歴史などを読んでいてもそうなのだが、あまりに明確すぎてちょっと違和感を覚える。しかし、イメージ、イマージュが明確であったからといってそれが真実や事実とは限らないわけで、そういうフランス語的な「明瞭な曖昧さ」のようなものを意識して読めると、案外そういう違和感が逆にポップで面白い気もしてくる。

たとえば「母の存在がエクリチュールになる」などといわれるとつい身構えてしまうが、エクリチュールを「書き方、書きぶり」と言い換えてみると、このエクリチュールはデュラスにとっての書くこと=生きることという等式関係の中で母の生き方の文法とか統語法といったもののことをさしているのだろうとあたりがつく。「母の生きざま」と訳すとあまりにもダサいが、フランス語はダサい内容の言葉をかっこよく言う言い方が異常に発達しているだけで、日本語にそのまま訳すとどうしようもなくダサくなってしまうので、中途半端にかっこよさと意味を共存させざるを得なくなるのだろう。「フランス女のど根性」と訳してはエレガンスも台無しである。しかし実際に言っていることのほとんどはそのレベルのことなんだろうと思う。しかしそうやって人間の粗末で滑稽な現実を救い出しエレガントな表現に結実させる力がフランス語にはあると言えるわけで、そのあたりいまの日本語が露悪表現の毒々しい花盛りであることの批評としてこういうものを対置させることには意味があると思う。露悪的な言葉が真実を表現しうるという幻想を、日本人は早く振り払ったほうがいい。それが出来ないと、人生を豊かに生きるなどということからは程遠いことになる。だからフランス人は老人でも恋愛できるんだよな。(そういえば昔の「三銃士」やら「シラノ・ド・ベルジュラック」の訳などは、正確であろうとして相当ダサかった気がする。そういうものを絢爛たる文体で表現するのがフランス文化の本領というべきだろう。)

少女の弱さと傷つきやすさ、という主題にはやはり心ひかれるものがあるのだが、「金のため」に愛人になった金持ち中国人のボンボンに対し、去っていく船の上で、「そして彼女は突然、自分があの男を愛していなかったということに確信をもてなくなった。」という表現は本当にじんと来る。回りくどいがゆえの直截さ。欲望の話のようで、本当は愛の話であるこの小説が、欲望を通してしか愛を語れない現代のある種の不毛を鮮烈に描き出しているように思う。なんていうのか、この小説は余分なところもずいぶんたくさんあると思うのだが、愛玩したくなるところもかなりあり、仔細に自分のものにしたい小説ではある。

山田詠美の『ベッドタイムアイズ』にちょっと似てるな。しかしデュラスの方が徹底している感じがする。そのあたりは年の功か。狂気がデュラスの方が深いというべきか。(6.28.)

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