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山本博文『男の嫉妬』

男の嫉妬 武士道の論理と心理

筑摩書房

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『男の嫉妬』は戦国期・江戸期の武士の名誉心の争いを「嫉妬」と見たてていろいろな実例を示しつつ描いているのだが、まあ自負とか誇りとかいう物を「嫉妬」と見てしまうとずいぶん矮小化されるものだなと感じた。一方で、武士の「誇り」による争いと幕府の「裁定」のギャップもまた興味深い。武辺を抑え、武士を奉公を尽くさせる官僚化しようという幕府の方針と、本来の武士の猛々しさの対比である。いずれにしてもまだ読みかけなので最終的な評価は出来ない。例えば現代の政治家の嫉妬による足の引っ張り合いと共通するものを見出そうとしている感じが無きにもしもあらずなのだが、興味深さとデリカシーに関する嫌らしさとその両方を感じている。(10.19.)

『男の嫉妬』読了。最初はいろいろな疑問を感じつつ読んでいたのでなかなか前に進まなかったが、まあこういう切り口の本だということがだんだん理解されてきたので飲み込みやすくなった。しかし最近、歴史や文学でも現代人の矮小化された人格を投影したような研究が目に付くようになってきたのはいいことなのか悪いことなのかよくわからない。

この本は、総体として、日本の男の嫉妬というものを江戸期の武士を事例に使ってうまく説明しているとは思う。「男の嫉妬」というものをテーマにすること自体、今まであまりなかっただろう。これもまあ、西欧の80年代ぐらいからの歴史学の流れにマンタリテ(メンタリティ、心性)を研究するというものがあり、それを日本史の研究に導入したといえる面もある。フランス革命などでそれがなされていてもそんなものかというくらいにしか思わなかったのだが、日本史でそれをやられると相当「イタイ」研究方法だということがよくわかった。つまりまあ、言いたいことはわからないではないが、嫉妬のみから江戸期の武士社会を語るのもいかがなものかと感じてしまうということである。先駆的な性格があるから少々強調し過ぎなのはいたし方がないのかもしれないが。

特に『葉隠』の作者の山本常朝についてはちょっと評価が低すぎる気がした。漱石や鴎外、あるいはオースチンなどをテキスト分析をして「こんなにヒドイ人格だ」と嘲笑しているようにみえる文芸評論があるが、その手のものと似ている気がする。『葉隠』はやはり武士道研究の基本文献であると思うし、もう少し全体像を示した上で批判するべきではないかと感じた。

しかし、読んでいるうちに納得して来たのは、日本が『男の嫉妬』を容認する、それに非常に寛容である社会だということである。私自身がそういうものが苦手なので、あまりそういう自覚がなかったのである。著者の言うには、男の嫉妬は必ず正義・正論という形を取って表明される。それだけに正面切ってはその嫉妬を批判しにくいことが多い。いかに自己中心的な正義であっても、当人にとってはそれが正義だ、ということで主張されるので、逆に強く否定すれば強い反発を招くということもあろう。私はそういうことに鈍感だし嫌いなので逆になるほどなと面白く感じるところもあるが、まあそういう記述ばかり読んでくると不愉快なものが降り積もってくることは仕方がない。出る杭は打たれる、とよく言うが、日本は本質的に平等志向の社会(「平等な社会」ではなく)なので、頭をもたげるものは叩くのが原則なのだということだろう。打たれないためには出る杭でなく一頭地を抜く出すぎた杭になるしかないが、そうなればなったでまた新しい地平の同等者たちとどんぐりの背比べになったりする。

しかし恐らくは、日本も本当に上の方になると、政治の世界(と学術の世界?)をのぞいてはそんなに杭の叩き合いばかりではないのだろう。ある意味さわやかな人も多い。国際社会ではまた近隣諸国に人の足を引っ張ったり少しでも日本より上位に立とうとする国々があるが、少なくとも世界全体としては嫉妬に対して日本国内ほどは寛容ではないような気がする。日本文化というものが、その嫉妬というものを含めた人間性と正面から向き合うという構造によって成り立っていると言う面は確かにあるのだろうな。ちょっと苦手だが、そのあたりのことも考えてみたいと思う。(2005.10.20.)

  

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