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木村元彦『オシムの言葉』

オシムの言葉―フィールドの向こうに人生が見える

集英社インターナショナル

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夕方気分転換に駅前まで散歩したときに、最近ずっと気になっていた木村元彦『オシムの言葉』(集英社インターナショナル、2005)を買った。読み始めてこの本は「当たり」だとすぐに思った。オシムという人のインテリジェンスと人間的魅力というものが本当によく描かれている。

たまたま『情熱大陸』でもオシムを取り上げていたので途中からだがしっかり見た。両者とも、ユーゴスラビア監督としてのオシムがどれだけ優秀で、高い支持を受けていたかということもよく描いていた。

しかし何より印象的で衝撃的だったのは、ユーゴスラビアが全盛時代だった90年代初めにオシムは代表監督だったのだが、ちょうど同じ時期にユーゴスラビアが解体していったことだ。マスコミは自らのエスニックの選手ばかりを報道し、彼らを使うようにオシムに圧力をかける。PK戦になったとき、ほとんどの選手が蹴るのを断った。失敗したらどうなるかわからない。ホームでの試合がまるでアウェイになり、ベオグラードではクロアチアの選手らにブーイングが浴びせられる。極めつけは、兼任していたベオグラード・パルチザンの監督采配中、故郷のサラエボが戦火に巻き込まれ、二年半以上奥さんと娘と音信不通になったことだ。そして采配を取るパルチザンは、サラエボを攻撃していたユーゴスラビア人民軍のチームなのである。彼はユーゴスラビア代表チームをヨーロッパ選手権に出場させ、パルチザンをカップ戦で優勝させた日、代表監督とパルチザンの監督を退いた。スウェーデンに到着した代表チームは出場権を剥奪され、そのまま強制的に帰還させられた。

最強の代表チームを率いる監督という栄誉ある立場にいながら、自らの祖国がまるで大地が崩れていくかのように四分五裂しなくなっていく。ユーゴスラビア紛争というのはどうしても私自身にとって遠い出来事だったが、このオシムの体験を読んでいると、これがいかに悲惨な出来事であったかがひしひしと伝わってくる。そしてストイコビッチも言っていたが、ヨーロッパやアメリカでのこの紛争の語られ方がいかに偏っていたかもよくわかる。この当たり、「戦争広告代理店」だったか、NHKの番組で「民族浄化」という言葉が作られた過程などを見たことである程度は認識していたものの、「祖国が崩壊していく」という感覚のおそろしさとやりきれなさというものはオシムのような立場の人間が一番強く感じただろうと思う。

改めて90年代というのがどういう時代だったのか、と考えさせられた。私などは、一般的にどうかはわからないけれども、90年代初頭の冷戦終結から、オウムや阪神大震災など大変な事件が起こり、またバブル崩壊後の「失われた10年」の多難な時期でありながらも、2001年の911以降の方がより大変な時代だと感じていたけれども、たとえばヨーロッパという角度から見れば社会主義体制の崩壊がどれだけの混乱をもたらしたか、たとえソ連という国家がどんな存在であれ、その崩壊がどれだけの困難をもたらしたのか、ということをもっと考えなければならないと思った。ヨーロッパでの戦争は第二次世界大戦後ユーゴ紛争までなかったわけだし。

50年代の朝鮮戦争、60年代のベトナム戦争はもとより、80年代のイランイラク戦争など、困難な事態はどこかで生じている。80年代は先進諸国が本格的な戦争に巻き込まれていないからやや能天気な時代だったが、90年代の東欧の困難、00年代の「テロとの戦争」などを考え合わせて見ると、ポップスシーンでも80年代のアート志向な音楽に比べ、90年代以降はメッセージ性の強いものになってきているというのもそういうふうに考えれば合点がいくなと考えた。われわれ80年代に20代を過ごした人間というのは、そういう意味では幸運だったのだろう。『気分はもう戦争』とか言っていれば済んだのだし。

『オシムの言葉』は現在p.125まで読了。これは損をしない一冊、お勧めです。(7.24.)

『オシムの言葉』を熟読している。先のエントリでは歴史との絡みのことを主に書いたが、サッカーと人生の哲学のようなこと、ボスニアでオシムがどのような存在か、ということについて読んでいると目頭がなんども熱くなる。

昨日の『情熱大陸』に出てきた言葉を思い出した。「自信など不要だ。相手にどう見えるかが大事なのだ。相手という鏡に映った自分を見て、自分の足りないところを向上させていくのだ。」正確ではないが、このようなことを言っていた。

この言葉は私にはすうっと来た。「自信を持て」、とはよく言われるが、自信など不要だ、ということを言う人はなかなかいない。それは私が、「もっと自分に自信を持たなければいけないな」と思うことが、というより「思ってしまう」ことが多いからに違いない。つまり「自信を持て」ということ自体が囚われになって自分を縛ってしまうということである。無意味に自信過剰な人間が溢れている現代は、ある意味危険だ。つまり、そうでない人間がその無意味な自信に圧倒されてしまうことが往々にしてあるのだ。そしてその結果、負けないようにまた無意味な自信を持つ、つまり「自信という名の思い込み」を持とうとして、せっかくの成長のチャンスを失ってしまう危険性が高い、ということなのだと思う。

本当に力のない状態で、力以上のものを出すためには、あるいは自分がうまくコントロールできない状態で集中するためには、「自信」self confidenceというものは大きな力を発揮することは確かだ。「自信を持て」とよく言われるのは、本来そういうことだろう。しかしいったんそういう状態を脱し、自分のリズムで動くことが出来るようになったとき、自分自身の根拠を「自信」に戻って確かめようとすることは帰って動きを硬直化させてしまう。つまりそこで成長のチャンスを失ってしまうのだ。

「自信を持つ」ということは一つの神話である、というより一つの「段階」であると言うことなのだろう。それよりステージが上がったら、「自信」などにもうこだわるべきではないのだ。人の目に映った自分を検証し、さらに自分を高めていく工夫だけが必要なのだ、ということを彼は言っているのだと思う。そういう意味では「自信」は一つの「罠」ですらある。

私はこれを聞いて、ふっと「ナショナリズム」というものもこれに似ているな、と思った。力がないときに、何とか集中しようとしてその糧になりうるのが国家の場合はナショナリズムだ。ある危機になるとそれが燃え上がるのは国家としての生存本能の現われだろう。しかし、ある程度以上強力になった国家にとって、ナショナリズムはなにか別の形に転換していくべきなのだと思う。韓国や中国を見ていて思うのは、弱小国家だった時代にナショナリズムが強いのは理解できるのだけど、現在のようにある程度以上強大な国家になってもそれにこだわっているのがあまり気持ちよいものには見えない、ということなのだ。中国では「ナショナリズム」というにはあまりに「大国意識」や「被害者意識」など攻撃的な感情が煽られすぎている。韓国政府にも「北朝鮮重視・日本敵視」の言動ばかりがあるがそれがどのくらい本当なのかわからない見えにくいところがある。建前としての朝鮮民族主義と本音としての生活保守主義というか、そういうものが極めてアンバランスになっている感じがする。

日本はどうだろうか。現代の日本にナショナリズムが必要だとすれば、それは「力不足」という点にあるわけではないことはまあだいたい一致できるだろう。つまり、自分たち自身の力をうまく活用し、コントロールできない状態にあることが根本的な問題なのだと思う。

それは外交上の問題をうまく処理できないことに端的に現れているわけで、先日の北朝鮮安保理決議にしても、あれくらいのことは日本の力があればもっと簡単に出来てもおかしくないことだと思わないだろうか。それが出来なかったのは「土下座外交」に代表される、「外交上の自信のなさ」に端的に現れていたわけだし、たとえば拉致問題にももっと打つべき手段があるということ、またイラク人質問題に現れるように何が国際的に評価される行為で、どういう行為が不信を呼ぶかという認識が不十分なところにある。

つまり、中国との問題に対しても、一方的にやり手の中国の外交にいいようにやられるのではなく、じっくり交渉しないと手ごわいぞと思わせることが大事なのであって、中国がそういうふうに振舞うようになれば日本人自身のセルフリスペクトも相当改善されることは間違いない。そうなればナショナリズムの必要性を云々する必要性もそうはなくなるだろう。ただ日本人は、慢心しやすい。それも、増上慢になることよりも、卑下慢になることが往々にしてある。卑下という慢心に付け込まれているのが日本の弱さや混乱の原因なのだということも理解しておいた方がいいだろう。

『オシムの言葉』を読みながらそんなことを考えた。(7.24.)

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